*志方へ集団疎開をされ、『学童疎開追想』を纏められたのは、神戸小学校(地図)の皆さんです。
母の死 3年 潮海一雄
私は、集団疎開に最初(昭和19年9月2日)から最後(昭和20年11月3日)まで参加した。
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当時、私にとって最も大きな出来事は、「疎開中に母が亡くなったこと」であった。
昭和二十年四月十七日、母は三十三才でこの世を去った。
奉公人の平尾さんという方が疎開先の西志方にこられて三宮町一丁目の自宅(6月5日の神戸大空襲の前なのでまだ焼けていなかった)に連れて帰っていただいたように記憶している。
母は、嫁ぎ先の商家の商いの手伝いと主人や五人の子供(上の三人は集団疎開に行っていた)の面倒、その他の家族の世話に明け暮れし、ゆっくり休む間がなかったのではないかと思う。
今でいえば過労死にあたる。
当時は、日本の社会に根をおろしていた「家」制度のもとで、個人、とりわけ女性が軽視されていた時代であった。
母は、決して愚痴をこぼさず、弱音もはかない責任感の強い女性であっただけに、他人に救いを求めることもしなかったし、またできなかったのだと思う。
このように、「集団疎開」といえば「母の死」が思い出されるだけに、集団錬開を語ることは、とてもせつなくつらいことである。
当時の母の手紙には、「面会日に行かれずすまなかった」とか、「お母さんもどんなにか会いたいと思って居た事でせう」という文面がみられ、私の心をうつものがある。
子に心配させてはいけないと病気のことにふれようとはしなかった。
しかし、子に会いたいが会いに行けない悲しみは押さえきれるものではなかったのであろう。
どんなにかさびしかったことだろうか。
戦争さえなければ一日でもながく母と過ごせたのにと、やるせなくうらめしく思う。
戦争というものが兵士以外に民間人までまきこんで犠牲者の範囲をひろげてしまうものだが、私は集団錬開を通じて戦争が家族をひきさき家庭や地域を破壊してしまうことを十二分に学ばせていただいた。
平成6年4月、母の五十回忌をすませたが、母は今も自分の心の中に生き統けている。
永遠の存在であるとともに心の支えでもある。
(以下略)