金剛寺浦公園かいわい *加古川町木村
『わがまち加古川60選』では、「金剛寺後援かいわい」を取り上げている。その説明書をお借りした。
「・・・“加古川図書館”を中心にした金剛寺浦公園周辺は、面白い空間が広がっています。
“金剛寺浦”という名称は、寺の名前に由来するようです。地誌・播磨鑑によると江戸時代、木村地区に真言宗の寺“医王山金剛寺”があったと記されています。
昔、近くに入江か舟が出入りするような場所があったため、寺の名前に加え“浦”が付けられたと思われます・・・」(『加古川60選』説明書より)
多い港の名前
以下は想像である。
それにしても、「金剛寺浦公園かいわい」には、港に関する名前が多い。
粟津・泊町、そしてこの金剛寺浦等がそれである。
HPは、浦・泊・津について、次のように説明している。
「・・海(水)運との関係で多く付く文字に「津」や「浦」がありますが、古代においては、船舶の碇舶する所が津で、海や湖の湾曲して陸地に入り込んだ所(風待ち、風よけの場所)が浦というふうに区別があったらしいです。
また、「泊」も「津」と同義ですが、泊のほうが古い言い回しのようです。・・・」
とすると、近くに入江か舟の出入りするような場所があった昔とは、いつの頃の話だろう。
加古郡・印南郡
加古川地方の国とは「播磨の国」であり、郡は加古郡と印南郡(いんなみぐん)であった。印南郡・加古郡の郡境が設けられたのは、奈良時代である。
郡境は、加古川の流れを基準としている。
加古川の東側を加古郡、西側を印南郡としたのであるが、加古川は暴れ川であり、しばしば流路を変えた。もと、印南郡の加古川村・木村村・友沢村・稲屋村は川東となり印南郡に属していたが、明治22年、加古郡に編入された。
ここでクイズをしたい。江戸時代「今の高砂の中心部は、加古郡それとも印南郡?」という問題である。答えは加古郡である。
奈良時代の高砂から加古川の海岸の地形を想像してみたい。
今の高砂の中心部に島(ナビツマ島・三角洲)があった。無人島の三角洲であり、印南郡でも加古郡でもなかった。
やがて、加古川の吐き出した土砂がナビツシマから尾上にかけて砂州をつくり繋がり、湾のような地形をつくった。そのため、現在の高砂の中心地は加古郡となった。
そこは、砂州と陸地の間は絶好の浦であり泊・津に適した地形となった。
金剛寺公園付近に浦・津・泊の名前を残しているのはその頃(奈良時代)の名残と想像している。
さらに付け加えておくと、当時は海から少しさかのぼった所が港としてよく利用されている。理由は、海だと木の舟を食う虫が繁殖するためである。金剛寺浦・泊町・粟津あたりは川筋の水が塩水の濃度を少し薄める所にあった港かもしれない。
郡境が決められた奈良時代、加古川の本流は図書館(旧・印南郡)と加古川公民館(旧・加古郡)の間あたりを流れていた。
*写真:金剛寺公園の入り口(右に小さな道があるが、その道は旧河川跡で郡境であった。右は旧加古郡、左は旧印南郡)