ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

コーヒーブレイク:幻の友栄町

2013-03-02 00:04:13 |  ・まち歩き

日本毛織の工場拡大路線!

明治32年(1899)、加古川工場(加古川市加古川町)がほぼ完了し、生産が開始された。

この時期は、日清戦争後で軍用絨の需要が続いていた。その後も、ニッケは政府需要へ依存する方針をとった。

政府需要の利潤は、少ないものの安定性はきわめて魅力的であった。

そして、日露戦争は、日清戦争と比べて規模も大きく、ニッケへの軍需品(軍服・毛布など)の注文が殺到した。

ニッケは、いっそう、政府依存の傾向を強め、軍需品の需要の激増により市中向けの製造を中止して、軍需品の製造により全力を注いだ。

日露戦争を契機に一層の飛躍をしたニッケは、その後も大規模な工場拡張を続けた。

ニッケは、この時期日の出の勢いであった。

     龍泉寺の場合

日本毛織(ニッケ)が、このように拡大路線を走っていた時である。龍泉寺は、ニッケに囲まれた。

ニッケは龍泉寺に対して立ち退きを要求した。

檀家の中には、「だいたい、後から来て立ち退けとはけしからん。そんな不見識なことはできん」と強力に反対する意見も多かった。

そんな時だった。龍泉寺は、庫裏を残し焼け落ちた。丁度、ニッケ創立十周年記念(明治44年6月12日)の夜のことだった。「ニッケによる放火だ」との噂もささやかれた。

龍泉寺はやっと意見がまとまり、大正5年8月7日に現在の場所(平野)に再建された。

幻の「友栄町」

029郷土史家の三浦幸一さんはブログで「幻の友栄町」について報告されている。面白い話なのでその一部を紹介したい。(文体を変えている)

日本毛織加古川工場は、大正時代には、更に工場を増設しなければならなくなり、敷地拡張の予定地として本町商店街の北側、旧北裏地域を候補地とした。

その地域には50数軒の民家があり、すべて移転の対象となった。だいたいの範囲は、現在のニッケ西門から東へ、西国街道(国道2号線)に沿った表筋の商店民家を残して、その北側の字北裏地域の住宅だった。

今の国道二号線の南側に敷地を確保することが出来た。移住した550数軒の住民はこの地を永住の地と定め、共に平和で楽しく隣人と友に繁栄を願って「友栄町」と名付けた。昭和2年の出来事である。

今では、友栄町の境界を確定できないが、友栄町の経緯を記録した石碑「友栄町移転口之序」(写真)が建てられている。場所は、加古川橋東詰から下って3本目の道路を右にまがって最初の十字路にある。

三浦氏はブログで住民は、ニッケに積極的に協力したとされているが、この時も龍泉寺の時と同じように住民の不満があったが、工場に押し切られたのはないかと疑いたくなる。史料があっていっているのではない。

 *写真:友栄町移転口之碑

コメント
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