ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

集団疎開(6):腹がへった

2013-03-16 07:06:46 |  ・加古川の戦争

*以下の文章は『学童疎開追想』ではなく、妙正寺(志方町横大路)に疎開された小川正さんが『神戸校九十年』(神戸小学校同窓会発行:1974)に投稿された文章です。 

  集団疎開で志方村へ

                 小川 正(昭和八年三月二十日生)

005(前略)六年生の時は、非常事態になった。

疎開するよういわれ、僕は末っ子で集団疎開に廻され、西志方村(横大路)の妙正寺へ行った。

    腹がへった

食糧も段々と不足して、お粥が常食であった。

疎開先きの田舎の子は銀飯で、まちの子はおかゆ腹! と田舎の子からよく泣かされた。

  お寺だったので朝夕のお勤めのお経を唱えてからでないとご飯は食べられなかった。

育ちざかりの頃なので食べたい一心で、学校の帰りみち、畦に大豆ができているのをそっと持ちかえり、夜皆が寝てから火鉢の上で、一粒ひとつぶ焼いて食べた。

ミカンの皮までも焼いて食べ、口の中に入れて毒でないものはみな食べた。

あさましい気持だが、今の子供に話しても信用してくれないだろう。

 「お寝しょう」で、ふとんがにおったこともありました

夜中に眼をさまして泣く子、寝小便する子、はずかしいから、そのままふとんをたたんでかくすので、後からものすごくにおう。

すぐに干せばいいんだが、格構が悪い気持はよくわかる。

戦争が激しくなり、僕等はいつ神戸へ帰れるのと、毎日、毎日心淋しい日が続いた。

面会に来てくれる両親も物資不足で僕らの好きな甘いものも手にはいらなかった。

両親に逢えば余計帰りたくなり淋しさが一層つのる。・・・・

(以下略)

*写真:妙正寺(志方町横大路)

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コーヒーブレイク:秀吉公鐘かけの松

2013-03-15 07:19:09 |  ・加古川の戦争

4a6e6a88前号で、妙正寺(志方町横大路)へ集団疎開された神戸小学校の方が建てられた記念碑を紹介しました。

記念碑のあるまさにその場所にかつて(昭和22年まで)樹齢500年といわれる見事な松の大木(写真上)がありました。

きょうは、コーヒー・ブレイクとして、その松を紹介しておきます。

     秀吉公鐘かけの松

かつて、妙正寺には、樹齢500年以上と推定されるそれは見事な松がありました。

山門を入って左の塀の側で、今そこに「集団疎開の碑」が建てられています。

近隣の自慢の松でした。

幹の高さは五間程で、太さは大人四人が手をつないでやっととどき、技は四方に張り出し、あたかも唐傘を拡げた格好から「傘松」とも呼ばれていました。

村の子どもたちは、大きな枝に荒縄を懸け、ブラシコをしてよく遊んでいました。

Yokoooji_005_2また一説では、天正年間 (約400年前)羽柴秀吉が志方城(志方町観音寺の場所にあった)を攻めた時に、この地に陣をおき、陣太鼓をつるして軍を叱咤したと伝へられ、別名、鐘懸松または、釣鐘松と呼ばれています。

天下の名樹としてその名に恥じない風格の古松でしたが、昭和228月、瀬戸内海一帯にまんえんした害虫(松喰虫)のため予防の効果なく遂に枯れてしまいました。

     松でつくった火鉢

先日、集団疎開について本堂で取材をさせていただきました。その時、本堂の隅にみごとな火鉢を見つけました。

住職にお聞きすると、「松の大木(鐘懸松・写真下)で作った火鉢です」と話してくださいました。

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集団疎開(5):河原の葬列

2013-03-14 09:17:44 |  ・加古川の戦争

003 *写真の石碑は直接本文「河原の葬列」と関係がありません。昭和50年に集団疎開を記念して、妙正寺(志方町横大路)の境内に建てられた記念碑です。碑文は下記のようです。

  昭和五十年五月十八日

  回顧 三十年

  神戸小学校百船会  

                  

河原の葬列  3年 原田幸次郎

(省略)

・・・・集囲疎開の八カ月の生活の思い出は、今でも鮮明なのは不思議なことです。

やはり、集団の中で要領を良くし、時には策略も必要となり、結構大人への段階を早く昇っていたのかも知れません。

イナゴやセリが食えるものだということを知っただけでなく、浴衣姿の女性教飾に感じたときめきは家庭では決して経験しないことでした。

  

   荼毘は河原で         

  そのころは小国民という言葉があり、玉砕のニュースや空襲で子どもにも「死」という言葉は身近なものになっていました。

この「死」のはかなさと哀れを私に教えた悲しい水死事故が終戦になった頃の疎開地で起きたのです。

近くの川で一年生か二年生だったMが溺れて亡くなり、その葬儀がその現場河原で行われました。

河原には組んだ木が積み上げられ、Mの遺体はみんなの前で茶毘に付されました。

暑い熱い夏の日の午後、黒い炎と共に幼い疎開学童が一人、家庭の団欒に戻ること無く短い生命を終えてしまったこの日の風景は、疎開の思い出の中で一際鮮烈なものになっています。

 あの日から五十年(平成七年の文集執筆当時)が経ちました。

Mがあの事故にあっていなかったら日本の高度経済成長と共に生き、家庭をつくり、そろそろ定年を迎える幸福な人生を送ったに違いありません。

偶発的な出来事とはいえ、Mやその家族にとっては疎開がその運命を変えてしまったと思える事でしょう。

私にとって学童疎開は親や兄弟と違う他人と初めて集団生活をした「道場」のようなものでした。

成長の上で得るものも多くありましたが肯定は出来ません

(以下略)

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集団疎開(4):母の死

2013-03-13 07:25:50 |  ・加古川の戦争

*志方へ集団疎開をされ、『学童疎開追想』を纏められたのは、神戸小学校(地図)の皆さんです。

    母の死            3年 潮海一雄

D0caf71私は、集団疎開に最初(昭和1992日)から最後(昭和20113日)まで参加した。

・・・・・

当時、私にとって最も大きな出来事は、「疎開中に母が亡くなったこと」であった。

昭和二十年四月十七日、母は三十三才でこの世を去った。

奉公人の平尾さんという方が疎開先の西志方にこられて三宮町一丁目の自宅(6月5日の神戸大空襲の前なのでまだ焼けていなかった)に連れて帰っていただいたように記憶している。

母は、嫁ぎ先の商家の商いの手伝いと主人や五人の子供(上の三人は集団疎開に行っていた)の面倒、その他の家族の世話に明け暮れし、ゆっくり休む間がなかったのではないかと思う。

今でいえば過労死にあたる。

当時は、日本の社会に根をおろしていた「家」制度のもとで、個人、とりわけ女性が軽視されていた時代であった。

母は、決して愚痴をこぼさず、弱音もはかない責任感の強い女性であっただけに、他人に救いを求めることもしなかったし、またできなかったのだと思う。

このように、「集団疎開」といえば「母の死」が思い出されるだけに、集団錬開を語ることは、とてもせつなくつらいことである。

当時の母の手紙には、「面会日に行かれずすまなかった」とか、「お母さんもどんなにか会いたいと思って居た事でせう」という文面がみられ、私の心をうつものがある。

子に心配させてはいけないと病気のことにふれようとはしなかった。

しかし、子に会いたいが会いに行けない悲しみは押さえきれるものではなかったのであろう。

どんなにかさびしかったことだろうか。

戦争さえなければ一日でもながく母と過ごせたのにと、やるせなくうらめしく思う。

戦争というものが兵士以外に民間人までまきこんで犠牲者の範囲をひろげてしまうものだが、私は集団錬開を通じて戦争が家族をひきさき家庭や地域を破壊してしまうことを十二分に学ばせていただいた。

平成6年4月、母の五十回忌をすませたが、母は今も自分の心の中に生き統けている。

永遠の存在であるとともに心の支えでもある。

(以下略)

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集団疎開(3):おやつはイナゴ

2013-03-12 06:30:21 |  ・加古川の戦争

おやつはイナゴ        3年 桑田 結

498f6750私たちは、お寺(志方町横大路妙正寺)の本堂に集まり、多分、先生から、ここで集団生活を送るので、しっかりせよと、お説教されたのだろう。

その後、(男の子は)公会堂へ移って、寝泊りすることになった。教室位の広さの天井の高い部屋だった。

昭和十九年夏から、昭二十年秋まで集団生活を送ったわけですが、広い公会堂にせんべいフトンでの生活はきびしく、手足はアカギレ、栄養失調によるハナタレ、皮膚病、加えて寝小便と九才~十才のこどもにとっては、本当につらかった。

テレビで報道される難民の姿と、何ら変わらない生活だった。

疎開地に入った当初は、週に一回位はすじ肉だったが肉もあった。

又、時には、交代で民家へ招待されて家庭の味を味ったりした。

しかし、戦局が悪くなるにつれて食事は悪くなる一方で、七、八月頃は、昼食はサカヅキー杯の大豆だけなり、朝夕の食事も、おかゆより薄い、得体の知れない重湯になっていた。

イナゴをとって、ホウラクでいって食べるが唯一のおやつだった。

イモのつるなどは貴重な食料だった。

  朝・宝殿駅で発見されることもありました

疎開中の唯一の楽しみは、やはり両親の面会であった。

差し入れのおやつが楽しみだったが、親が帰れば全部集めて、全員のおやつになった。

時局とともに、面会に来る親も段々と減り、六月の神戸大空襲以後は、在神の親も丸裸となり、集団疎開に預けておいた方が、良いやと云う事で、全く面会もなくなった。

学友の中には、戦災で両親を亡くして、縁者に迎えられて、泣き泣き他所へ行くものもいた。

余りのつらさに、夜中に脱走して、早朝宝殿駅で見つかる友もたびたび出た。

中には、それっきり帰ってこない友もいたが、無事自宅へたどり着いたのか、確かめるすべもなかった。

(以後略)

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集団疎開(2):M君が死んだ

2013-03-11 06:48:27 |  ・加古川の戦争

   帰りたかった・・・

                      3年・田尾  稔

E0c4ceff五十年前神戸から疎開先へ行くときは遠足に行くような気分だった。

西志方の公会堂(妙正寺の近く)で寝起きしたが、公会堂の前の溝にはどじょうがいたり、近くに牛小屋があったり、足ふみ稲こき機の「ゴー」、「ゴー」という音が聞こえてきた農村らしいところだった。

公会堂の前に洗面所があって、井戸の水をポンプでくみあげたり、「うしやん」という背中のまがった男の人がいて、たきもの用の木をわったりしていた。

公会堂の広っぱから下へおりていく道の途中に駄菓子屋さんがあったように思う。

いつの頃からか、児童の間にのみやしらみがわき出して、夜電燈に風呂しきをまいてその下でのみやしらみとりをした。

松本という名の寮母さんがおられて、夜自分の腹の上に足をおいて寝ておられてびっくりしたこともあった。

朝晩、隣接するお寺(妙正寺)でお経をあげたが、朝、お経をあげるときは「帰りたい」と思って涙をよく流したものだった。

M君とO君が脱走して見つかり、M先生から叱られているのを見た。

H君とY君は脱走に成功したが・・・・。

親の元へ帰りたい子の気持を責めることはできないと思う。

M君が溺れて死んだ

悲しかったことは、M君が池におぼれて死んだことだった。

つらかったことは、面会にきたおふくろと近くの川の橋の上で別れるときだった。

橋のたもとまでしか見送りできなかった。当時は木の橋だった。

八月十五目の玉音放送は公会堂で間いたが、何を言っておられるのかさっぱりわからなかった。あとで戦争に負けたことを知った。

(以下略)

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学童疎開(1)・学童疎開追想(集)

2013-03-10 07:47:24 |  ・加古川の戦争

いま、「かこがわ100選」を連載していますが、少し休憩して、戦争中の学童疎開について紹介します。

「かこがわ100選」は、志方町への「学童疎開」の紹介の後に続けます。

    学童疎開

学童疎開(がくどうそかい)は、2次世界大戦末期の日本で、アメリカ軍の空襲などによる被害をさけるためおこなわれた大都市の小学校(当時は国民学校)児童の農村部への移住政策です。

1943(昭和18)末から親戚などをたよる縁故疎開がはじまり、44(昭和19)6月に学童疎開促進要綱を政府は決定し、半強制的な集団疎開となりました。

このとき対象となった都市は、東京都区部・横浜・川崎・大阪・神戸・名古屋など13都市で、対象児童は初等科36年生でした。

1945(昭和20)3月からはさらに疎開政策が徹底化され、12年の児童もふくむ全員疎開が目標になりました。

敗戦までに集団疎開した児童は約45万人に達したといいます。

疎開先は主に農村部の寺院などで、こうした集団生活では、食糧難や親元をはなれた生活な不安、農村との生活習慣の違いなどでいろいろな混乱や悲劇がおきました。

最終的に都市への引き揚げがおわったのは敗戦の3カ月後の1945(昭和20)11月でした。

    志方への学童疎開

001志方町の散策をしていた時、神戸の児童が志方町への学童疎開があったことを知りました。

そして、かつての「疎開児童」は、平成六年(1994)10月、疎開先の妙正寺(志方町横大路)等を訪問し「同窓会」をされています。

そして、その後、当時の体験を「学童疎開追想」と題した文集にまとめられました。

このブログでも、(文集)『学童疎開の追想』の一部を読んでみましょう。

*写真:文集『学童疎開追想』(神戸小学校学童疎開追想編集委員会)

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かこがわ100選(32):報恩寺

2013-03-09 07:22:28 |  ・加古川100選

報恩寺             *平荘町山門

Taira_026平清盛は大きな功績があったということで、天皇から、播磨の地、500町を賜った。

やがて、平氏は鎌倉方に敗れ、北条本家筋が播磨の守護になると、それらの土地は北条家に引き継がれた。

神戸大学の石田先生(故人)は、さまざまな史料から、北条氏が平氏から得た播磨の土地は五箇荘(ごかのしょう)であったと推測されている。

奈良・西大寺領の印南荘(いんなみのしょう)(平の荘は印南荘の一部)も五箇荘に含まれていたようである。

鎌倉時代、五箇荘は、現在の加古川市・加古郡・そして明石軍の一部も含む大きな地域を含んでいたようである。

現在、報恩寺は真言宗の寺で、高野山に属しているが、鎌倉時代は奈良・西大寺の真言律宗の寺であった。というのは、北条氏が真言律宗と深い関係があったためと考えられる。

報恩寺の奉加帳

報恩寺には、県の文化財にも指定されている奉加帳がある。いろいろな書物にも取り上げられている有名なものである。

この奉加帳(1432?)には、将軍・足利義教(よしのり)、管領・細川持氏それに赤松満祐(みつすけ)の名前がある。

 驚かれたと思う。1441年に大事件がおこった。将軍・足利義教が赤松満祐に殺されたのである。世に言う、嘉吉の乱である。

そして、この乱を管領として処理をしたのが細川持氏であった。

これら3人が同じ奉加帳にあるのは珍しく、早くから注目されていた。

この奉加帳をまわしたのは赤松貞村で、赤松円心(満祐の祖父)の次男のひ孫にあたる人物で、幕府で影響力をもっていた。

赤松氏が、この五箇荘を赤松家のものにしようと狙っていのであろうか。

*写真:報恩寺(加古川市平荘町山角)

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かこがわ100選(31):日岡山公園

2013-03-08 07:06:58 |  ・加古川100選

昨年、ある事情で桜の時期に加古川にいなかった。今年は、見事な日岡山公園のソメイヨシノ、ヤマザクラを見に出かけたい。

 もうすぐ、桜が咲く楽しみである。

きょうは、桜ではなく、日岡山公園にある古墳の話をしたい。

鏡(同鏡) は語る

Photo 写真の鏡は、東車塚古墳出土の「三角縁神獣鏡」(さんかくぶちしんじゅうきょう)である。

 東車塚出土の鏡は、「同笵鏡(どうはんきょう)」である。聞きなれない言葉であるが、同じ鋳型からつくられた鏡のことをいう。

「同笵鏡」は一枚ではない。

この「同笵鏡」について歴史家は、「同笵鏡は、有力な豪族が、同盟を結んだ印として他の豪族に与えた鏡である」と考えている。

したがって、「同笵鏡の分布の範囲を知ることにより、当時の勢力関係が分かる」と言う。

東車塚古墳から出土した「同笵鏡」は、大和(奈良)地方の豪族と同盟関係にあったことが分かった。

日岡山の古墳の多くは4世紀古墳である。

ということは、4世紀に加古川地方の豪族は、すでに大和の豪族と同盟関係を持っていたことになる。

 日岡豪族にとって、大和の豪族と同盟を結ぶ必要があった。

加古川地方は、畿内と畿外との接点に位置していた。

つまり、西には吉備地方・出雲地方の豪族が勢力を持っていた。

東は、もちろん大和の豪族である。

加古川地方の豪族が、吉備地方の豪族から攻撃を受けた時、自らを防衛するために大和から応援を求める必要があった。

また、自らの地位を高めるために、大和の豪族と同盟を結んだとも考えられる。

 大和王権にとって、加古川地方は、吉備(岡山)地方との最前線基地で、加古川地方が、吉備(岡山地方)と同盟を結ぶことは大問題であった。

加古川地方を重要な拠点と考えたのは当然であった。

*写真は東車塚古墳(加古川市加古川町大野)出土の三角縁三神二獣鏡。

 東車塚古墳は、現在の加古川刑務所内にあったが、戦前ここに弾薬庫(神野倉庫)が建設され、壊された。

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かこがわ100選(30):日岡神社

2013-03-07 07:45:35 |  ・加古川100選

式内社(日岡神社)       *加古川町大野

日岡神社は、式内社(しきないしゃ)である。

 「式内社(しきないしゃ)は、聞きなれない言葉で、これは10世紀のはじめ、醍醐(だいご)天皇の時代に作られた規則である延喜式(えんぎしき)に、その名が見られる神社のことである。

 古代人にとって、森や山は神々の宿る場所であり、ある時は、そこに集まり神々に感謝し、あるときは政(まつりごと)を神々と共に行った場所であった。

 時はたち、やがて社殿が造られるようになり、7世紀の後半には全国的に神社の形が完成した。

 中央政府は、地方の豪族と結びつきを強め、勢力をさらに強めるため、全国の有力な神社をその統制下におき、「式内社」として権威づけた。

 加古川市付近(加古川市・高砂市・播磨町・稲美町)で「式内社」は日岡神社だけで、  多くの神社がそうであるように、式内社に選ばれた理由は分からない。

 きっと、日岡神社は、当時このあたりで大きな勢力をもっていたため式内社に選ばれたと思われる。

亥巳籠(おいごもり)

Photo日岡神社には亥巳籠(おいごもり)という不思議な行事がある。

先日、日岡神社でいただいたパンフレットから引用したい。

(少し、文章を変えている)

「・・・(亥巳籠は)一般に「おいごもり」と呼ばれ、旧正月後の最初の亥の日~巳の日まで籠るので「亥巳籠」と言われています。

ヤマト・タケルのお母さん(稲日大郎姫命・いなひおおいらつめのみこと)は、双子の皇子をご出産されました。

亥巳籠は、その時、安産されるように黙祷(もくとう)した状態を後世に伝えたものだといわれています。

亥巳籠の期間中、写真のように本殿の扉を榊で囲い、しめ縄を張り、鈴を柱に結えていっさいの音を禁じている・・・」

 亥巳籠が明ける最初の午の日、的射(まとい)の神事が行われます。

 きのうの新聞には、5日に行われた的射の行事が大きく報じられていた。

日岡神社は、安産の神様としてよく知られていますが、ヤマト・タケルの出産と関係している。

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かこがわ100選(29):金剛寺浦公園かいわい

2013-03-06 07:20:46 |  ・加古川100選

  金剛寺浦公園かいわい   *加古川町木村

002『わがまち加古川60選』では、「金剛寺後援かいわい」を取り上げている。その説明書をお借りした。

「・・・“加古川図書館”を中心にした金剛寺浦公園周辺は、面白い空間が広がっています。

“金剛寺浦”という名称は、寺の名前に由来するようです。地誌・播磨鑑によると江戸時代、木村地区に真言宗の寺“医王山金剛寺”があったと記されています。

昔、近くに入江か舟が出入りするような場所があったため、寺の名前に加え“浦”が付けられたと思われます・・・」(『加古川60選』説明書より)

     多い港の名前  

以下は想像である。

それにしても、「金剛寺浦公園かいわい」には、港に関する名前が多い。

粟津・泊町、そしてこの金剛寺浦等がそれである。

HPは、浦・泊・津について、次のように説明している。

「・・海(水)運との関係で多く付く文字に「津」や「浦」がありますが、古代においては、船舶の碇舶する所が津で、海や湖の湾曲して陸地に入り込んだ所(風待ち、風よけの場所)が浦というふうに区別があったらしいです。

また、「泊」も「津」と同義ですが、泊のほうが古い言い回しのようです。・・・」

とすると、近くに入江か舟の出入りするような場所があった昔とは、いつの頃の話だろう。

加古郡・印南郡

加古川地方の国とは「播磨の国」であり、郡は加古郡と印南郡(いんなみぐん)であった。印南郡・加古郡の郡境が設けられたのは、奈良時代である。

郡境は、加古川の流れを基準としている。

加古川の東側を加古郡、西側を印南郡としたのであるが、加古川は暴れ川であり、しばしば流路を変えた。もと、印南郡の加古川村・木村村・友沢村・稲屋村は川東となり印南郡に属していたが、明治22年、加古郡に編入された。

 ここでクイズをしたい。江戸時代「今の高砂の中心部は、加古郡それとも印南郡?」という問題である。答えは加古郡である。

奈良時代の高砂から加古川の海岸の地形を想像してみたい。

今の高砂の中心部に島(ナビツマ島・三角洲)があった。無人島の三角洲であり、印南郡でも加古郡でもなかった。

やがて、加古川の吐き出した土砂がナビツシマから尾上にかけて砂州をつくり繋がり、湾のような地形をつくった。そのため、現在の高砂の中心地は加古郡となった。

そこは、砂州と陸地の間は絶好の浦であり泊・津に適した地形となった。

金剛寺公園付近に浦・津・泊の名前を残しているのはその頃(奈良時代)の名残と想像している。

さらに付け加えておくと、当時は海から少しさかのぼった所が港としてよく利用されている。理由は、海だと木の舟を食う虫が繁殖するためである。金剛寺浦・泊町・粟津あたりは川筋の水が塩水の濃度を少し薄める所にあった港かもしれない。

郡境が決められた奈良時代、加古川の本流は図書館(旧・印南郡)と加古川公民館(旧・加古郡)の間あたりを流れていた。

*写真:金剛寺公園の入り口(右に小さな道があるが、その道は旧河川跡で郡境であった。右は旧加古郡、左は旧印南郡)

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かこがわ100選(28):加古川駅

2013-03-05 07:26:04 |  ・加古川100選

    加古川駅     

*加古川町篠原町

006『わがまち加古川60選』(加古川市地域振興部商工労政課)は、加古川駅を最初にあげている。何と言っても「駅」は町の玄関である。

その一部を読んでみたい。

「・・・旧加古川駅舎は明治43年、旧国鉄西成線(現・桜島線)の桜島駅舎として建てられました。9年後加古川に移築されましたが、高架に伴い、平成1610月に解体されました・・・」とある。

個人的には、旧駅舎は忘れがたい建物として記憶にある。

新装なった加古川駅の説明は他所に任せ、きょうは、現在の加古川駅でない「加古川駅」を紹介したい。

   

 江戸時代の加古川駅

JR加古川駅は、すっかり装いを変えたが、新しくなった駅舎の入り口に向かって少し左(西)にある比較的大きな「加古川駅の碑」(写真)にお気づきになられただろうか。

 この標柱には、次の文字が刻んである。

 002 東  明石駅迄五里十四丁

    西国街道播磨国

     加古郡加古川駅

  西  姫路駅迄四里二十五丁余

 加古川駅ができたのは、明治21年(1888)であるが、この標柱は現在の加古川駅のものではない。

 「西国街道」(山陽道は江戸時代、西国街道となる)と言うのであるから、江戸時代のもので、加古川駅(人馬継立問屋場)は、陣屋(人形の店「陣屋」は陣屋跡にある)の東隣にあった。

 この標柱には「南、西国街道播磨国」とあるので、元は加古川駅の北のどこかにあったことになるが、場所は分らない。

 寺家町から日岡神社へ向かう中津(加古川市加古川町中津)あたりの道沿いにあったのだろう。

 7世紀、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道が整備された。

 山陽道は加古川を通り、野口には「賀古の駅(かこのうまや)」がおかれた。

 鎌倉時代には交通の要所としての「賀古の駅」は、野口から寺家町へ移ったようである。

 特に、江戸時代、加古川の宿の人馬継立問屋場、つまり加古川の駅は大いに栄えた。

 *写真上:現在の加古川駅前

   〃下:江戸時代の「加古川駅」を示す道標

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かこがわ100選(27):寺家町周辺

2013-03-04 09:27:37 |  ・加古川100選

誓文払いがあった             

Photo加古川市に「誓文払い(せいもんばらい)」という、商店がこぞって参加する年末の大バーゲンセールがあった。

寺家町等は、狂おしいほどの賑わいであった。

「誓文払い」は、もともと京都に始まった行事らしい。

広辞苑は「・・・一年中、商売上の駆け引きで嘘をついた罪を払い、神罰の赦免を請う行事。この日、呉服店は特に安値の売出しをする・・」と説明している。

もとの意味はともかく、姫路では12月1日から5日間、加古川ではその後日曜日を中心に5日間が「誓文払い」だった。

地元商店だけでなく、遠くは大阪からも商人が大挙して押しかけるほどの大セールだった。

寺家町・本町商店街は、写真のように満員電車なみの人混みとなった。

そのはずである。三木・小野・西脇など東播磨一円から人が加古川に集まった。

(写真は、「人形の店・陣屋」から、10メートルほど西の本町商店街の「誓文払い」時の風景。西の方向を撮っている)

 それに、姫路・明石は空襲で焼け野原になったが、加古川はほとんど無傷で戦後から7・8年の盛況は今からは想像もできない。

「誓文払い」が近づくと、我々悪がきもワクワクした。誓文払いと一緒にサーカスが町にやってきた。

『新・かこがわ事典』は「・・・こまったことは公衆便所がすくなく、路地はどこもかしこも臭い臭い小便路地になっていた・・・今ではとても想像すらできないことですが、ご婦人方も結構立小便をされていた・・」と、こんな話も取り上げている。

   そして、ザワメキが消えた

・・・・寺家町・本町から「誓文払い」のザワメキが消えた。

人は大型販店に押しかける。そして神戸・大阪へ買い物に出かける。

時の流れとばかりで済まされない。「無策」という言葉が残る・・・

*写真:誓文払いの風景

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コーヒーブレイク:幻の友栄町

2013-03-02 00:04:13 |  ・まち歩き

日本毛織の工場拡大路線!

明治32年(1899)、加古川工場(加古川市加古川町)がほぼ完了し、生産が開始された。

この時期は、日清戦争後で軍用絨の需要が続いていた。その後も、ニッケは政府需要へ依存する方針をとった。

政府需要の利潤は、少ないものの安定性はきわめて魅力的であった。

そして、日露戦争は、日清戦争と比べて規模も大きく、ニッケへの軍需品(軍服・毛布など)の注文が殺到した。

ニッケは、いっそう、政府依存の傾向を強め、軍需品の需要の激増により市中向けの製造を中止して、軍需品の製造により全力を注いだ。

日露戦争を契機に一層の飛躍をしたニッケは、その後も大規模な工場拡張を続けた。

ニッケは、この時期日の出の勢いであった。

     龍泉寺の場合

日本毛織(ニッケ)が、このように拡大路線を走っていた時である。龍泉寺は、ニッケに囲まれた。

ニッケは龍泉寺に対して立ち退きを要求した。

檀家の中には、「だいたい、後から来て立ち退けとはけしからん。そんな不見識なことはできん」と強力に反対する意見も多かった。

そんな時だった。龍泉寺は、庫裏を残し焼け落ちた。丁度、ニッケ創立十周年記念(明治44年6月12日)の夜のことだった。「ニッケによる放火だ」との噂もささやかれた。

龍泉寺はやっと意見がまとまり、大正5年8月7日に現在の場所(平野)に再建された。

幻の「友栄町」

029郷土史家の三浦幸一さんはブログで「幻の友栄町」について報告されている。面白い話なのでその一部を紹介したい。(文体を変えている)

日本毛織加古川工場は、大正時代には、更に工場を増設しなければならなくなり、敷地拡張の予定地として本町商店街の北側、旧北裏地域を候補地とした。

その地域には50数軒の民家があり、すべて移転の対象となった。だいたいの範囲は、現在のニッケ西門から東へ、西国街道(国道2号線)に沿った表筋の商店民家を残して、その北側の字北裏地域の住宅だった。

今の国道二号線の南側に敷地を確保することが出来た。移住した550数軒の住民はこの地を永住の地と定め、共に平和で楽しく隣人と友に繁栄を願って「友栄町」と名付けた。昭和2年の出来事である。

今では、友栄町の境界を確定できないが、友栄町の経緯を記録した石碑「友栄町移転口之序」(写真)が建てられている。場所は、加古川橋東詰から下って3本目の道路を右にまがって最初の十字路にある。

三浦氏はブログで住民は、ニッケに積極的に協力したとされているが、この時も龍泉寺の時と同じように住民の不満があったが、工場に押し切られたのはないかと疑いたくなる。史料があっていっているのではない。

 *写真:友栄町移転口之碑

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かこがわ100選(26):三島由紀夫の松

2013-03-01 07:16:20 |  ・加古川100選

三島由紀夫の松(徴兵検査の場所) *加古川町木村

007三島由紀夫が加古川市志方町を訪れたのは二回のみである。

 一回目は、由紀夫に徴兵検査(昭和195月)の命令が来た時である。

当時、徴兵検査は現住所か本籍地のどちらで受けてもかまわなかった。

彼も父も何とか公威(由紀夫)の不合格をのぞんだ。

おしなべて体格のよくない東京での徴兵検査になれば合格率が高くなる。

幸い、当時の由紀夫は体の貧弱な若者だった。

たくましい若者の多い本籍地・加古川で受験すれば不合格の可能性が高くなると踏んだのである。

この徴兵検査の時、加古川を訪れている。

検査は、視力・腕力・走力それに重量挙げまであった。

後に、『仮面の告白』で、この時のようすを「・・・・農村青年たちが軽々と十回も上げる米俵を、私は胸までも持ち上げられずに検査官の失笑を買ったにもかかわらず、結果は第二種合格で・・・」と表現している。

これは、本人も父も誤算だったに違いない。

なお、この検査の行われた場所は、加古川公会堂、現在の加古川小学校の横の市立図書館の松の木の下である。

これが由紀夫の一回目の加古川訪問であった。

    召集令状届く

由紀夫の二回目の加古川訪問は、入隊の時である。

昭和202月4日、赤紙、召集令状の電報があった。電文には、「本籍地(志方町)で入隊せよ」とか書かれてあった。

東京を発つ時、微熱だったのですが、志方に着くにつれて熱は激しくなった。

入隊地の現在の青野ヶ原へ出かけた。

この時のようすを、「仮面の告白」から引用したい。

「・・・(入隊場所の青野ヶ原で)入隊検査で獣のように丸裸にされて、うろうろしているうちに、私は何度となく、くしゃみをした。

青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイいう音をラッセル(異常呼吸音)と間違え、あまつさえ、この誤診が私のでたらめの病状報告で確認され・・・(省略)・・・私は、肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた。

営門を後にすると私は駆け出した。・・・・」

彼は、加古川があまり好きでなかったのか、その後、加古川への訪問はなかった、作品にも加古川・志方は登場しない。

*写真:三島由紀夫が徴兵検査を受けた場所にある松の木

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