おやつはイナゴ 3年 桑田 結
私たちは、お寺(志方町横大路妙正寺)の本堂に集まり、多分、先生から、ここで集団生活を送るので、しっかりせよと、お説教されたのだろう。
その後、(男の子は)公会堂へ移って、寝泊りすることになった。教室位の広さの天井の高い部屋だった。
昭和十九年夏から、昭二十年秋まで集団生活を送ったわけですが、広い公会堂にせんべいフトンでの生活はきびしく、手足はアカギレ、栄養失調によるハナタレ、皮膚病、加えて寝小便と九才~十才のこどもにとっては、本当につらかった。
テレビで報道される難民の姿と、何ら変わらない生活だった。
疎開地に入った当初は、週に一回位はすじ肉だったが肉もあった。
又、時には、交代で民家へ招待されて家庭の味を味ったりした。
しかし、戦局が悪くなるにつれて食事は悪くなる一方で、七、八月頃は、昼食はサカヅキー杯の大豆だけなり、朝夕の食事も、おかゆより薄い、得体の知れない重湯になっていた。
イナゴをとって、ホウラクでいって食べるが唯一のおやつだった。
イモのつるなどは貴重な食料だった。
朝・宝殿駅で発見されることもありました
疎開中の唯一の楽しみは、やはり両親の面会であった。
差し入れのおやつが楽しみだったが、親が帰れば全部集めて、全員のおやつになった。
時局とともに、面会に来る親も段々と減り、六月の神戸大空襲以後は、在神の親も丸裸となり、集団疎開に預けておいた方が、良いやと云う事で、全く面会もなくなった。
学友の中には、戦災で両親を亡くして、縁者に迎えられて、泣き泣き他所へ行くものもいた。
余りのつらさに、夜中に脱走して、早朝宝殿駅で見つかる友もたびたび出た。
中には、それっきり帰ってこない友もいたが、無事自宅へたどり着いたのか、確かめるすべもなかった。
(以後略)