ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

集団疎開(3):おやつはイナゴ

2013-03-12 06:30:21 |  ・加古川の戦争

おやつはイナゴ        3年 桑田 結

498f6750私たちは、お寺(志方町横大路妙正寺)の本堂に集まり、多分、先生から、ここで集団生活を送るので、しっかりせよと、お説教されたのだろう。

その後、(男の子は)公会堂へ移って、寝泊りすることになった。教室位の広さの天井の高い部屋だった。

昭和十九年夏から、昭二十年秋まで集団生活を送ったわけですが、広い公会堂にせんべいフトンでの生活はきびしく、手足はアカギレ、栄養失調によるハナタレ、皮膚病、加えて寝小便と九才~十才のこどもにとっては、本当につらかった。

テレビで報道される難民の姿と、何ら変わらない生活だった。

疎開地に入った当初は、週に一回位はすじ肉だったが肉もあった。

又、時には、交代で民家へ招待されて家庭の味を味ったりした。

しかし、戦局が悪くなるにつれて食事は悪くなる一方で、七、八月頃は、昼食はサカヅキー杯の大豆だけなり、朝夕の食事も、おかゆより薄い、得体の知れない重湯になっていた。

イナゴをとって、ホウラクでいって食べるが唯一のおやつだった。

イモのつるなどは貴重な食料だった。

  朝・宝殿駅で発見されることもありました

疎開中の唯一の楽しみは、やはり両親の面会であった。

差し入れのおやつが楽しみだったが、親が帰れば全部集めて、全員のおやつになった。

時局とともに、面会に来る親も段々と減り、六月の神戸大空襲以後は、在神の親も丸裸となり、集団疎開に預けておいた方が、良いやと云う事で、全く面会もなくなった。

学友の中には、戦災で両親を亡くして、縁者に迎えられて、泣き泣き他所へ行くものもいた。

余りのつらさに、夜中に脱走して、早朝宝殿駅で見つかる友もたびたび出た。

中には、それっきり帰ってこない友もいたが、無事自宅へたどり着いたのか、確かめるすべもなかった。

(以後略)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする