ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

かこがわ100選(36):称名寺

2013-03-29 08:28:59 |  ・加古川100選

称名寺       *加古川町本町

Photo_2  称名寺のある場所に信長・秀吉の時代、加古川城があった。

 天正六年(1578)秀吉は7500人の兵を率いて、加古川城へやってきた。

当時、信長は武田・上杉と対峙しており、大坂では石山本願寺(浄土真宗)が信長に対抗して、身動きがとれなかった。

 その時、石山本願寺を支援していたのは、毛利氏であった。

 やがて、加古川地方を中心にして信長軍と毛利軍の激しい戦いが展開された。

 当時、野口・神吉・加古川・志方(以上加古川市)・高砂等の諸城は、三木の別所氏の支配下にあった。天正5年(1577)信長から別所氏に一通の手紙が届いた。

 内容は「毛利攻めにおいて、信長方に味方されたい・・・・・・恩賞ははずむ」というものであった。城主・別所長治(べっしょながはる)は、この時21才。

 やがて、評定(会議)が加古川城(加古川西高等学校の東約500㍍にある称名寺が加古川城跡・写真)で開かれた。

 信長側からは秀吉が、そして三木側からは城主・長治に代わり、叔父の賀相(よしすけ)等が参加した。

 世に名高い「加古川評定」である。この評定により、三木方は毛利に味方し、信長方と戦うことになった。

評定の状況は、小説であるが、司馬遼太郎氏の小説『播磨灘物語』の一部を読むことにしたい。

     加古川評定

 ・・・いよいよ秀吉が広間にあらわれ、評定がはじまりました。当然のことながら秀吉は正面の席にいる。

 播州者は、みな秀吉をあるじのごとく秀吉にむかい、はるかに下がっている。

 「なぜじゃ、我々はみな羽柴ごとき者を主のように仰がばならぬ・・・・」と、どの男も、この位置関係に不満を持ち、別所賀相(べっしょよしすけ・三木城主長治の叔父)のごときは「ちょっと、かわやに・・・・」とつぶやき、ゆっくり腰を上げて、そのまま部屋を出て小一時間帰ってこなかった。

 評定も進みつつあった時である。賀相に言わせれば、「下郎上がりが、何を間違えて、かかる場所に座っておるのか・・・」といいたかったところであろう。

 「かわやに・・・」といった賀相は、そのまま門前に出、そこで待たせてあった供の者を連れ、その辺を一巡し、ひまをつぶした。

 ・・・・この後、もとの席に帰り、三木方の重臣に長々と秀吉に戦法を講釈させた。

 たまりかねた秀吉は「よく承った・・・」と長談義を中断させた。・・・(『播磨灘物語』より)

 賀相は三木に帰り、この評定のようすを城主・長治に伝えました。「・・・秀吉の態度はまことに無礼であった・・」と。

 三木方は、毛利氏に味方し、信長・秀吉方と戦うことが決定した。

 加古川城は、信長側についたが、他の近在の城主は毛利軍に味方した三木方として信長軍と戦うことになった。その詳細については別に紹介したい

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« かこがわ100選(35):... | トップ | かこがわ100選(37):... »

コメントを投稿