帰りたかった・・・
3年・田尾 稔
五十年前神戸から疎開先へ行くときは遠足に行くような気分だった。
西志方の公会堂(妙正寺の近く)で寝起きしたが、公会堂の前の溝にはどじょうがいたり、近くに牛小屋があったり、足ふみ稲こき機の「ゴー」、「ゴー」という音が聞こえてきた農村らしいところだった。
公会堂の前に洗面所があって、井戸の水をポンプでくみあげたり、「うしやん」という背中のまがった男の人がいて、たきもの用の木をわったりしていた。
公会堂の広っぱから下へおりていく道の途中に駄菓子屋さんがあったように思う。
いつの頃からか、児童の間にのみやしらみがわき出して、夜電燈に風呂しきをまいてその下でのみやしらみとりをした。
松本という名の寮母さんがおられて、夜自分の腹の上に足をおいて寝ておられてびっくりしたこともあった。
朝晩、隣接するお寺(妙正寺)でお経をあげたが、朝、お経をあげるときは「帰りたい」と思って涙をよく流したものだった。
M君とO君が脱走して見つかり、M先生から叱られているのを見た。
H君とY君は脱走に成功したが・・・・。
親の元へ帰りたい子の気持を責めることはできないと思う。
M君が溺れて死んだ
悲しかったことは、M君が池におぼれて死んだことだった。
つらかったことは、面会にきたおふくろと近くの川の橋の上で別れるときだった。
橋のたもとまでしか見送りできなかった。当時は木の橋だった。
八月十五目の玉音放送は公会堂で間いたが、何を言っておられるのかさっぱりわからなかった。あとで戦争に負けたことを知った。
(以下略)