ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

かこがわ100選(28):加古川駅

2013-03-05 07:26:04 |  ・加古川100選

    加古川駅     

*加古川町篠原町

006『わがまち加古川60選』(加古川市地域振興部商工労政課)は、加古川駅を最初にあげている。何と言っても「駅」は町の玄関である。

その一部を読んでみたい。

「・・・旧加古川駅舎は明治43年、旧国鉄西成線(現・桜島線)の桜島駅舎として建てられました。9年後加古川に移築されましたが、高架に伴い、平成1610月に解体されました・・・」とある。

個人的には、旧駅舎は忘れがたい建物として記憶にある。

新装なった加古川駅の説明は他所に任せ、きょうは、現在の加古川駅でない「加古川駅」を紹介したい。

   

 江戸時代の加古川駅

JR加古川駅は、すっかり装いを変えたが、新しくなった駅舎の入り口に向かって少し左(西)にある比較的大きな「加古川駅の碑」(写真)にお気づきになられただろうか。

 この標柱には、次の文字が刻んである。

 002 東  明石駅迄五里十四丁

    西国街道播磨国

     加古郡加古川駅

  西  姫路駅迄四里二十五丁余

 加古川駅ができたのは、明治21年(1888)であるが、この標柱は現在の加古川駅のものではない。

 「西国街道」(山陽道は江戸時代、西国街道となる)と言うのであるから、江戸時代のもので、加古川駅(人馬継立問屋場)は、陣屋(人形の店「陣屋」は陣屋跡にある)の東隣にあった。

 この標柱には「南、西国街道播磨国」とあるので、元は加古川駅の北のどこかにあったことになるが、場所は分らない。

 寺家町から日岡神社へ向かう中津(加古川市加古川町中津)あたりの道沿いにあったのだろう。

 7世紀、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道が整備された。

 山陽道は加古川を通り、野口には「賀古の駅(かこのうまや)」がおかれた。

 鎌倉時代には交通の要所としての「賀古の駅」は、野口から寺家町へ移ったようである。

 特に、江戸時代、加古川の宿の人馬継立問屋場、つまり加古川の駅は大いに栄えた。

 *写真上:現在の加古川駅前

   〃下:江戸時代の「加古川駅」を示す道標

コメント
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