加古川駅 *加古川町篠原町
『わがまち加古川60選』(加古川市地域振興部商工労政課)は、加古川駅を最初にあげている。何と言っても「駅」は町の玄関である。
その一部を読んでみたい。
「・・・旧加古川駅舎は明治43年、旧国鉄西成線(現・桜島線)の桜島駅舎として建てられました。9年後加古川に移築されましたが、高架に伴い、平成16年10月に解体されました・・・」とある。
個人的には、旧駅舎は忘れがたい建物として記憶にある。
新装なった加古川駅の説明は他所に任せ、きょうは、現在の加古川駅でない「加古川駅」を紹介したい。
江戸時代の加古川駅
JR加古川駅は、すっかり装いを変えたが、新しくなった駅舎の入り口に向かって少し左(西)にある比較的大きな「加古川駅の碑」(写真)にお気づきになられただろうか。
この標柱には、次の文字が刻んである。
南 西国街道播磨国
加古郡加古川駅
西 姫路駅迄四里二十五丁余
加古川駅ができたのは、明治21年(1888)であるが、この標柱は現在の加古川駅のものではない。
「西国街道」(山陽道は江戸時代、西国街道となる)と言うのであるから、江戸時代のもので、加古川駅(人馬継立問屋場)は、陣屋(人形の店「陣屋」は陣屋跡にある)の東隣にあった。
この標柱には「南、西国街道播磨国」とあるので、元は加古川駅の北のどこかにあったことになるが、場所は分らない。
寺家町から日岡神社へ向かう中津(加古川市加古川町中津)あたりの道沿いにあったのだろう。
7世紀、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道が整備された。
山陽道は加古川を通り、野口には「賀古の駅(かこのうまや)」がおかれた。
鎌倉時代には交通の要所としての「賀古の駅」は、野口から寺家町へ移ったようである。
特に、江戸時代、加古川の宿の人馬継立問屋場、つまり加古川の駅は大いに栄えた。
*写真上:現在の加古川駅前
〃下:江戸時代の「加古川駅」を示す道標