姉からの手紙
(昭和二十年六月五日の神戸大空襲のあとの手紙)
2年 門田幸也(志方町観音寺への集団疎開生)
今日は、中々のよい天気ですね。
青い空に白い雲がふはり、ふはり浮いています。
面会はたのしかったね・・・・けれどこちらは、そのあくる日恐しい事があったのよ・・・・幸也君もしっているでしよう。あの空襲ですよ!
お姉ちゃんは生れて始めてあんな目にあったよ。では一通り書いてみます。
警戒警報が鳴ったのがちょうど朝の七時すぎであったので、皆ご飯をたべていました。
ついで空襲!さあ大へんといふわけで身仕度をととのえてまっていた。
もちろん地下室へはいった。
見ていると十二機ぐらいの、一編隊がやってきた。
そして、バラバラバラと焼夷弾をおとしだした。
すると、三宮の方から一時に黒い煙があがった。
また、つぎつぎとやってきて最後にサラサラ、ドドンーといったかと思ふと、あたりは煙で一寸先も見えない。
お姉ちゃんは、どうしょうかと思って、うろうろしていたら、お父ちゃんが来てくれたので一緒にやけあとへと向かった。
やけあとにも無数の焼夷弾がおちてきて、「前におちたアー、後ろにおちたアー」といっているときりがない。
ころびながらも、やっとやけあとの教会の所までにげてきた。
見るとお姉ちゃんのそばにはだれもいない。
大へんと思ってさがしてもいないので泣きそうになった。
でも、やっとお父ちゃんとお兄ちゃんがさがしにきたホッとしたよ。
けれども、お母ちゃんがいないのでこまってしまった。
やっとみつけたところは、お家の庭の防空壕の中で、隣の梁さんと平本さんのおばさんとよその子が、やけ死んでいました。
外がはでは船員さんが死んでおられました。きのどくでした。
すこし熱いのがさめてからいってみると、一時間ぐらいの間にきれいに灰になっていました。
なにもかも、やけてしまいました。・・・・敵機はしゃくにさわるね。きっとこの仇をうってやらなければおなかの虫がおさまりません。(以下略)
*神戸大空襲直後の神戸「ウィキペディア」より