ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

集団疎開(13):姉からの手紙

2013-03-23 06:54:33 |  ・加古川の戦争

姉からの手紙 

(昭和二十年六月五日の神戸大空襲のあとの手紙)

2年 門田幸也(志方町観音寺への集団疎開生)

300pxkobe_after_the_1945_air_raid幸也君、その後お元気ですか。こちらは皆元気です。

今日は、中々のよい天気ですね。

青い空に白い雲がふはり、ふはり浮いています。

面会はたのしかったね・・・・けれどこちらは、そのあくる日恐しい事があったのよ・・・・幸也君もしっているでしよう。あの空襲ですよ!

お姉ちゃんは生れて始めてあんな目にあったよ。では一通り書いてみます。

警戒警報が鳴ったのがちょうど朝の七時すぎであったので、皆ご飯をたべていました。

ついで空襲!さあ大へんといふわけで身仕度をととのえてまっていた。

もちろん地下室へはいった。

見ていると十二機ぐらいの、一編隊がやってきた。

そして、バラバラバラと焼夷弾をおとしだした。

すると、三宮の方から一時に黒い煙があがった。

また、つぎつぎとやってきて最後にサラサラ、ドドンーといったかと思ふと、あたりは煙で一寸先も見えない。

お姉ちゃんは、どうしょうかと思って、うろうろしていたら、お父ちゃんが来てくれたので一緒にやけあとへと向かった。

やけあとにも無数の焼夷弾がおちてきて、「前におちたアー、後ろにおちたアー」といっているときりがない。

ころびながらも、やっとやけあとの教会の所までにげてきた。

見るとお姉ちゃんのそばにはだれもいない。

大へんと思ってさがしてもいないので泣きそうになった。

でも、やっとお父ちゃんとお兄ちゃんがさがしにきたホッとしたよ。

けれども、お母ちゃんがいないのでこまってしまった。

やっとみつけたところは、お家の庭の防空壕の中で、隣の梁さんと平本さんのおばさんとよその子が、やけ死んでいました。

外がはでは船員さんが死んでおられました。きのどくでした。

すこし熱いのがさめてからいってみると、一時間ぐらいの間にきれいに灰になっていました。

なにもかも、やけてしまいました。・・・・敵機はしゃくにさわるね。きっとこの仇をうってやらなければおなかの虫がおさまりません。(以下略)

*神戸大空襲直後の神戸「ウィキペディア」より

コメント
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