*写真の石碑は直接本文「河原の葬列」と関係がありません。昭和50年に集団疎開を記念して、妙正寺(志方町横大路)の境内に建てられた記念碑です。碑文は下記のようです。
昭和五十年五月十八日
回顧 三十年
神戸小学校百船会
河原の葬列 3年 原田幸次郎
(省略)
・・・・集囲疎開の八カ月の生活の思い出は、今でも鮮明なのは不思議なことです。
やはり、集団の中で要領を良くし、時には策略も必要となり、結構大人への段階を早く昇っていたのかも知れません。
イナゴやセリが食えるものだということを知っただけでなく、浴衣姿の女性教飾に感じたときめきは家庭では決して経験しないことでした。
荼毘は河原で
そのころは小国民という言葉があり、玉砕のニュースや空襲で子どもにも「死」という言葉は身近なものになっていました。
この「死」のはかなさと哀れを私に教えた悲しい水死事故が終戦になった頃の疎開地で起きたのです。
近くの川で一年生か二年生だったMが溺れて亡くなり、その葬儀がその現場河原で行われました。
河原には組んだ木が積み上げられ、Mの遺体はみんなの前で茶毘に付されました。
暑い熱い夏の日の午後、黒い炎と共に幼い疎開学童が一人、家庭の団欒に戻ること無く短い生命を終えてしまったこの日の風景は、疎開の思い出の中で一際鮮烈なものになっています。
あの日から五十年(平成七年の文集執筆当時)が経ちました。
Mがあの事故にあっていなかったら日本の高度経済成長と共に生き、家庭をつくり、そろそろ定年を迎える幸福な人生を送ったに違いありません。
偶発的な出来事とはいえ、Mやその家族にとっては疎開がその運命を変えてしまったと思える事でしょう。
私にとって学童疎開は親や兄弟と違う他人と初めて集団生活をした「道場」のようなものでした。
成長の上で得るものも多くありましたが肯定は出来ません。
(以下略)