志方町の観音寺で集団疎開された当時小学校2年生の西浦さん等3名は、宝殿駅から観音寺まで当時の記憶を確かめようと歩かれています。
集団疎開は、何だったのか 2年・西浦正晃
昭和二十年三月十七日の神戸の夜襲に母親が恐怖を感じたのか、途中から集団疎開に放り込まれたのです。
宝殿駅から一里の道を歩いて観音寺(志方町)に着いて、私の集団生活が始まった。
栄養失調になり、四ケ月で六月五日の神戸空襲で焼け出されて移った芦屋の疎開先に連れて帰えられた。
そして、日本は敗けた。
集団錬開の生活は、ただ惨めということしか思い出さない。
戦争の悲惨さが文や写真で発表されているが、集団疎開も小さいながらも子どもの私にとって、惨さだけが今も思いとして残っている。
宝殿駅から観音寺(志方町)まで歩きました
昭和五十五年、集団疎開に付きそえで行かれた橋本タミ先生の金婚式のお祝いで再会した橋本学級の集団疎開の仲間である増田君、今は亡き熊沢幸男君の三人が、集団疎開の志方を訪ねようという話になり、夏の日、かつて辛い思いをして行き帰りした宝殿駅からの道は歩かなければ意味がないし、時間かけて観音寺まで歩いた。
約四十年経っていたが、寺は集団疎開時と同じであり、小学生の背丈から見た高さと広さの違いがあったが、何か感無量であった。
何か心の中で集団疎開から引きずっていたものが終ったように感じたことを、思い出します。
そこには懐しさではなく、小学生の心に刻みこまれた思い、戦争によって経験しなくて済んだものを経験しなければならなかったということを、この三人が感じていたからこそ、夏の暑い日に観音寺まで歩く気持になったのであろう。
*写真:観音寺(現在)
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