廃藩置県(明治4年・1871)後、兵庫県の県域はめまぐるしく変化しました。
少し、説明しておきましょう。
明治4年11月2日、現在の兵庫県は図のように豊岡県、兵庫県、名東県(みょうどうけん)、に再編されました。
その内、姫路県は、1週間後の11月9日に県名を飾磨県と変えています。
これは旧姫路藩が徳川幕府での最後の大老を出すなど、朝敵藩であり、「姫路」という名称が新政府に嫌われたためだといわれています。
明治9年8月21日、それら4つの県が合併して大きな兵庫県となりました。
これは、「神戸港をもつ兵庫県が貧弱な県であってはならない」という大久保利通の考えによるものでした。
県令、早期の地租改正を迫る
森岡昌純は、飾磨県の県令でしたが、明治9年9月4日、東京・京都・大阪に次ぐ大兵庫県の初代の県令に任命されました。
森岡は、自信と満足感でいっぱいで、心に「地租改正」の早期実施を誓うのでした。
初登庁の日です。
県会議員や職員が集まり、森岡は第一声を発しました。
彼は、少しばかり県政を述べただけで、さっそく当面の仕事の話題にはいりました。
以下、小説『赤い土』(小野晴彦著)から引用します。
・・(初登庁での演説)・・
「さっそくであるが、いま、われわれが早急にとりくまなければならぬ仕事は「地租改正」である。
この改正については、改正条例ならびに改正規則、地方官心得が出されてすでに三年を過ぎ、諸士もよく存じていることと思う。
県下各地の耕地丈量は全て終えているであろうから、これより直ちに、地価の評価と地租の算定を急いでもらいたい。
・・・・」
森岡は、各地の丈量が終わっていないことをよく知っていたが、すでに終えたかのような話しぶりでした。
部下の気持ちを奮い立たせたのです。
以後、県令の意を受けて、地租改正の作業は急ピッチで進められました。
そして、明治11年、新地租(税率)が各村々に申しわたされたのです。(no5023)