北条直正物語(13) 厳しい祖額に調印
県は、印南東部6ヵ村(現:稲美町母里地区)に対し、とてつもない祖額を申し渡しました。
これは、綿作の畑地は収益が高く見積もられたことも一因でしたが、何よりも、この地域は水が少なく、収穫が少ないため、他の地域よりも年貢が少なかったのです。
それが他の地域なみに祖額が決められたら一挙に税が高くなるのは当然のことです。
新しく地価を決めるため、調査官が来た時は、水田を減らし、畑をふやしていました。
たまたま、例年であれば日照で、ひび割れする土地もこの年は、水気を失っていたがくずれませんでした。
これが災いしました。
調査官たちは被害の実際を見抜くことができなかったのです。
農民の訴えは、税金逃れしようとする態度にしか写りませんでした。
さらに、地租改正では、祖額は地価の3%(明治10年より2.5%)で金納になりました。
お金で納めたのですから、天候には関係がありません。収穫のないときでも容赦なく決まった税が課せられたのです。
それに、母里地区は、たびたび旱魃に見舞われました。そんな年は、藩は年貢を減らしました。時には見舞金さえありました。
新政府には、そんな配慮はありません。
それに地租改正により税は、米ではなく金納にかわったことも農民を苦しめました。
百姓には、当然たくわえなんてありません。収穫の秋に、米価は暴落します。
安くても、この時期に米を売らなければ借金は払えません。
どこまでも、百姓は苦しめられました。
茂平次、新祖額に調印す
印南新村の戸長(村長)の茂平次は「こんな祖額は、お受けできません」と、きっぱりと断わりました。
掛長はいらだったが、茂平次は動じませんでした。
掛長は「無知な人間は困ったものだ。日本の立場を知らんから恥ずかしいと思わん。無知は、無恥だ・・・」
場所をかえて、茂平次への説得は続きました。
説得は不首尾におわりました。
担当官は、どうしても調印させたかったのです。
茂平次の宿舎までおしかけました。
説得は深夜にまでおよび、茂平治の意識はもうろうとしてきました。
そして、とうとう調印を承諾してしまいました。(no5025)
*『赤い土(小野晴彦著)』(神戸新聞総合出版センター)参照