ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

北条直正物語(22) 播州葡萄園

2020-07-21 10:19:54 |  北条直正物語

    播州葡萄園

 日本のブドウ栽培のルーツが印南(加古郡稲美町印南)にあったことは、稲美町以外では意外と知られていないようです。

 播磨葡萄園は、120年前に廃園になり、地元でも忘れられていました。

 15年ほど前にその遺構が見つかり、その一部の発掘調査が行われました。

 平成17年(2005)に国の史跡指定が決まり、播州葡萄園が再浮上してきました。

    官営、播磨葡萄園

 明治12年、政府は官営の葡萄工場を計画しました。

 地元ではさっそく誘致に動き、翌13年2月、政府は約30ヘクタールを買収し、3月、園長・福羽が着任し播州葡萄園はスタートしました。

 明治16年度には11万本の苗木の植えつけも終わり、ワイン・ブランデーづくりもはじまり、約20平方メートルのガラス温室がお目みえするのもこの頃です。

 明治17年には、松方正義大蔵卿(後、総理大臣)、西郷従道(さいごうつぐみち)農商務長官が葡萄園を視察しました。

 官営の播磨葡萄園の開設により政府の要人がしばしば印南新村を訪れるようになり、当地の事情が、直接中央でも知られるようになり、疎水の必要性も認められるようになりました。

 明治19年、園長の福羽逸人(ふくばはやと)は、ドイツ・フランスへ留学を命じられました。

 代わって経営にあたったのは、農商務省の前田正名(まえだまさな)です。

  *前田正名は、多木粂次郎にも大きな影響を与えています。

 そして、事情は良く分からないのですが、明治21年、前田正名に払い下げられています。

 ですから、葡萄園が官営工場であったのは10年ばかりでしたが、この間に岡山県の名産となっている「マスカット・オブ・アレキサンドリア」の温室栽培への技術移転でした。

    葡萄の天敵・ブドウフィロキセラ被害広がる

 明治18年6月、葡萄の天敵であるブドウフィロキセラがみつかりました。

 前田の経営にうつって後、フィロキセラ大繁殖により、葡萄の木は衰弱して、明治20年代の後半、播州葡萄園は、閉園となりました。(no5034)

 *写真:発掘されたブドウ酒(中身もはいっている)

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