北条直正物語(12) 厳しい租額
明治10年の春でした。
地価を調査するための調査員が台地の村へやってきました。
百姓は、村の苦しい様をセツセツと訴えました。でも、その実態は理解してもらえなかったようです。
地租の内示は、旧祖額(江戸時代年の貢率)の3倍を超えていました。
印南東部6ヵ村の赤松治三郎・井沢重太郎・松田宇在門・丸尾茂平次・松尾宗十郎・赤松治郎三郎は祖額の不当なことを県令に願い出ました。
しかし、予想していたとおり、返事はありませんでした。
*(印南東部6ヵ村:蛸草新・草谷・下草谷・野寺新・印南新・野寺の6ヵ村。これら6ヵ村は明治22年4月1日合併して母里村となる)
新祖額では、村が潰れてしまう!
そして、明治11年7月24日、新祖額が申し渡される日をむかえました。
印南新村の丸尾茂平次は、気がすすまぬまま、姫路妙光寺へ出かけました。
会場には各戸長(村長)の代表等数百人が集まっていました。
県の掛長は、はっきりした声で述べました。
「それでは各改正掛より新祖額をお渡しする。よく確かめて印を押されたい」新祖額が戸長(村長)代表に渡されました。
茂平次は、体のふるえが止まりません。
内示の額とほとんど変わっていないのです。
印南の東部6ヵ村の代表は改正係を取り巻いて、その不当な祖額をなじりました。
印南野でも、この6ヵ村が特に厳しい祖額の申し渡しになりました。
祖額は、旧祖額(江戸時代の年貢率)と比べて蛸草新村は4.96倍、野谷新村は3.49倍、印南新村は3.44倍、野寺村は3.3倍、下草谷村は2.25倍でした。
比較的少ない草谷村でも1.76倍でした。
掛長は、「新しい制度には不備があろうが、猶予のならぬときである。・・・・きょうの六か村の祖額が間違いであったとしても、いずれ正される。だから、今日は、ひとまず調印されたい・・・」というのが精一杯でした。
6ヵ村の戸長(村長)は、「県令」の強引なやり口をしっていました。
どうしようもないことを知っていました。
「(間違いは)いずれ正される」ことに期待し、印南新村を除いてしぶしぶ調印しました。
印南新村の丸尾茂平次だけは調印をことわりました。
こんな租税を受けると、村は潰れてしまう・・・(no5024)
*『赤い土(小野晴彦著)』(神戸新聞総合出版センター)参照