ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

北条直正物語(17) 初代加古郡長・北条正直

2020-07-16 10:26:32 |  北条直正物語

     初代加古郡長・北条正直

 魚住完治の疎水計画は、動かなくなってしまってしまいました。

 完治は、村々に疎水の大切なことを説いてまわりましたが、百姓の答えは、決まったように、「魚住さんの話はよう分かります。せやけど、毎年の日照続きで、先立つものがありまへん・・」

 こんな状況を一変させたのは、ひにくなことにも地租改正でした。

 食うことに事欠く人々から、なおも奪おうとする非常な地租が、疎水を求める声になったのです。

 「このままでは、百姓は土地を手放し、村を出ていかなあかん」「なんとかせなあかん」

 せっぱつまった百姓の考えが徐々に変わってきました。

 完治と甥の逸治は、郡役所に北条直正をたずねました。

 郡長は、さっそく「魚住さん、ようやってですな。疎水計画のことは前の区長からあらまし聞いています」という話からはじめたのです。

       郡長の決意

 郡長の言葉を『赤い土』(小野晴彦著)から引用させていただきます。

 「・・・私はもと林田藩の武士でして、水利工事に関わったことがあります。

 林田藩では代々、水利開発に力を入れていまして、310年の間に大きな新田開発をたびたび行っています。

 いずれも、まず用水路をつくり、水を確保しています。

 そして、これらの工事の全ては藩命により行われました。

 お聞きしました山田川よりの引水は、政治をする者が率先して計画実践すべきことであります。

 私はこのことを県令殿に申し上げ、少しでも早く着手されるようにお願いしましょう・・・」

 北条の話に、完治は目頭をおさえました。

 さらに、郡長は逸治に郡役所の仕事を手伝ってくるよう頼むのでした。(no5029)

 *写真は、初代加古郡長・北条正直

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北条直正物語(16) 北条直正、加古郡長に就任

2020-07-15 11:23:42 |  北条直正物語

   北条直正、加古郡長に就任

     草谷新村、旧税の11.23 

 新祖額の調査が遅れて、発表が11年(1878)となったため、11年の末に納める額は、9・10年度の分が加算されました。

 旧税の実に6倍という常識を超える額となったのです。

 明治11年、印南東部6ヵ村(現:稲美町母里)の旧税に対する倍率を『稲美町史』からひろっておきます。(『稲美町史』426p)

 印南新村7.17倍、野谷新村7.32倍、草谷村2.7倍、野寺村6.80倍、草谷新村11.23倍、下草谷4.00倍でした。

 旧税も納められないことがしばしばありました。

 それなのにこの数字はなんとしたことでしょう。

 悪い時には悪いことが重なるのが常のようです。

 明治9・10年は、またもやこの地方に旱魃が襲いました。母里地区は田の植え付けは例年の40%に減らしました。

 畑は30~40%の植え付けとなりました。

 こんな年は、旧藩なら当然減税の上、救助米が支給されました。

 地租改正は、凶作により税の減収をなくすことを目的にしていましたから、凶作でも減税はありません。

 お救い米もありません。

 その上、当地方の経済を支えていた綿作が、神戸港開港にともない安い、良質な外国綿の増加で、綿作は急激に衰退します。

 待ったなしです。 

 方法は2つしか考えられません。

 一つは地価の修正を県に嘆願すること、もう一つはこの地に水をひくことです。

     北条直正、加古郡長に就任

 幸運がひとつできました。

 明治12年1月、制度が変わり、郡が復活し北条直正が加古郡長として赴任して来ました。

 北条は、役人でありながら当地方の窮乏にきわめて同情的で、水利事業を高く評価していた人物でした。(no5028)

 *写真は加古郡・郡役所(寺家町)

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北条直正物語(15) 水が欲しい

2020-07-14 10:10:11 |  北条直正物語

   水が欲しい

 印南野台地は、南と西に徐々に低くなっていいます。

 その北東隅に雌岡山(めっこうさん)が聳えています。

 雌岡山あたりに、十分な水があれば、水は比較的たやすく流れてくれる自然の地形となっています。

 しかし、高さ249.5㍍の小山では、広い台地に十分な水はありません。

 「その向こうに長く連なる丹生山(たんじょうざん)、帝釈山(たいしゃくさん)やったらもっとぎょうさん水があるやろ」と考えた人がいました。

 明和8年(1771)年、神出東村の人でした。

 名前は分からないのですが、測量図が残されていました。

 国岡新村の福田嘉左衛門は、この計画ことを知りました。

 地図をご覧ください。山田の阪本から神出(かんで)の紫田(ゆうだ)練部屋(ねりべや)にいたる水路を造ろうと考え姫路藩に申し出ました。

 文政9年(1826)のことでした。

 姫路藩としても工事の許可を出すわけにはいきません。

 取水口やそこからの水路は他藩の領地を通ることになるからです。

 そして、明治初年、打ち続く旱害の中で東村の藤本増右衛門が、またまた用水の計画をつくりましたが、この時は協力する者がいませんでした。

 明治5年(1871)、廃藩置県で藩の壁がなくなり、工事の大きな障害が一つなくなりました。

        夢の実現へ

 この年、野寺村の魚住完治は国岡新村の福田厚七、花房権大夫、神出村の西村茂左衛門とはかり、藤本増右衛門を招いて測量のことを聞きました。

 増右衛門は、自信をもっていいきるのでした。

 「でけます。ただ、工事費がかかります。一つや二つの村では、とてもやないがでけまへん・・・」

 増右衛門は、工事のことを詳しく説明しました。

 練部屋(ねりべや)から山田(点線)までは、そない難しい工事になりまへんが、ただ、シブレ山の北は谷が深うて、はかまの裾みたいになっとります。

 そやから、そのヒダにそって水路をグニャ・グニャの曲げるか、ひだに穴あけ谷に橋かけないけまへん。

 なんぼ田んぼつくっても、水がなかったらどうにもなりまへん。

 印南野の百姓が、人なみに生きようと思うたら川から水引かないけまへん。

 ・・・・・

 魚住完治は、出入りの多い地形を幾度と測量しました。

 そして、路線を変更し、見積もりを訂正しました。

 完治は、その費用のほとんどを私財で負担しました。

 練部屋まで水が来れば、後は完成できたも同然です。

 印南野台地は、適度の勾配を持つ地形です。水路をつくれば水は自然と印南野台地を流れてくれるはずです。

 夢の計画は、産声をあげました。(no5027)

 *『赤い土』小野晴彦著参照

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北条直正物語(14) 新租額はきまったが・・・

2020-07-13 09:59:43 |  北条直正物語

   新租額はきまったが・・・

  翌朝、茂平次は姫路の宿舎を出て一人村へ向かいました。

 夏の日差しは、容赦なく茂平次に照りつけました。

 昨夜から、何度も同じことを繰り返していました。

 今も堂々巡りしている。

 「印を押したことは間違だった」「仕方ないことだった」「印を押したことは県のやり方を認めたことになる」「これからどうしたらよいのか」「・・・・」

 高畑村(現・平岡町高畑)から印南野台地にかかると風景は一変しました。

 太陽が、干からびた台地にギラついています。

 村人は、茂平次を見つけ、冷たい水と手ぬぐいを差し出しました。

 焼けた道を歩いてきた体には、心地よく、村人の親切がみにしみるのでした。

 それだけに、昨夜の調印がよけいに悔やまれてなりません。

 集まってきた村人は、茂平次を責められません。

 昨夜からのいきさつを村人たちはよく知っていました。

 百姓は「お国も県もひどいことをしよる」とつぶやいた後、沈黙が続くばかりでした。

 茂平次は、考えていることを話した。

 「どないしても、地価の見直しをしてもらわなあきまへん・・・」

 茂平次は一同の気持ちを確かめるように見回した。

     薄明かり・用水(疎水)計画の話

 話は別やが野寺村の魚住完治はんが力をいれてはる山田川からの引き水のことやけど、まだ、いまのところどないなるかわからへん・・・

 そやから、地価をみなおしてもらって、水が来るまで村が潰れんようにがんばりましょう。

 翌日、茂平次は村に新祖額を伝えました。

 改正祖額が伝えられると、内容は広まっていたものの、村人は激怒しました。

 「役人は人殺しや」と国をののしる者もいました。

 怒りをどこへぶつけてよいのかわかりません。

  ・・・・

 後日、茂平次は地租請印取り消し上申書を県令(知事)に親展で提出しました。

 予期したこととはいえ、何の音沙汰もありませんでした。(no5026)

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北条直正物語(13) 厳しい祖額に調印 

2020-07-12 08:12:30 |  北条直正物語

      北条直正物語(13) 厳しい祖額に調印

 県は、印南東部6ヵ村(現:稲美町母里地区)に対し、とてつもない祖額を申し渡しました。

 これは、綿作の畑地は収益が高く見積もられたことも一因でしたが、何よりも、この地域は水が少なく、収穫が少ないため、他の地域よりも年貢が少なかったのです。

 それが他の地域なみに祖額が決められたら一挙に税が高くなるのは当然のことです。

 新しく地価を決めるため、調査官が来た時は、水田を減らし、畑をふやしていました。

 たまたま、例年であれば日照で、ひび割れする土地もこの年は、水気を失っていたがくずれませんでした。

 これが災いしました。

 調査官たちは被害の実際を見抜くことができなかったのです。

 農民の訴えは、税金逃れしようとする態度にしか写りませんでした。

 さらに、地租改正では、祖額は地価の3%(明治10年より2.5%)で金納になりました。

 お金で納めたのですから、天候には関係がありません。収穫のないときでも容赦なく決まった税が課せられたのです。

 それに、母里地区は、たびたび旱魃に見舞われました。そんな年は、藩は年貢を減らしました。時には見舞金さえありました。

 新政府には、そんな配慮はありません。

 それに地租改正により税は、米ではなく金納にかわったことも農民を苦しめました。

 百姓には、当然たくわえなんてありません。収穫の秋に、米価は暴落します。

 安くても、この時期に米を売らなければ借金は払えません。

 どこまでも、百姓は苦しめられました。

     茂平次、新祖額に調印す

 印南新村の戸長(村長)の茂平次は「こんな祖額は、お受けできません」と、きっぱりと断わりました。

 掛長はいらだったが、茂平次は動じませんでした。

 掛長は「無知な人間は困ったものだ。日本の立場を知らんから恥ずかしいと思わん。無知は、無恥だ・・・」

 場所をかえて、茂平次への説得は続きました。

 説得は不首尾におわりました。

 担当官は、どうしても調印させたかったのです。

 茂平次の宿舎までおしかけました。

 説得は深夜にまでおよび、茂平治の意識はもうろうとしてきました。

 そして、とうとう調印を承諾してしまいました。(no5025)

 *『赤い土(小野晴彦著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

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北条直正物語(12) 厳しい租額  

2020-07-11 13:21:14 |  北条直正物語

      北条直正物語(12)  厳しい租額

 明治10年の春でした。

 地価を調査するための調査員が台地の村へやってきました。

 百姓は、村の苦しい様をセツセツと訴えました。でも、その実態は理解してもらえなかったようです。

 地租の内示は、旧祖額(江戸時代年の貢率)の3倍を超えていました。

 印南東部6ヵ村の赤松治三郎・井沢重太郎・松田宇在門・丸尾茂平次・松尾宗十郎・赤松治郎三郎は祖額の不当なことを県令に願い出ました。

 しかし、予想していたとおり、返事はありませんでした。

 *(印南東部6ヵ村:蛸草新・草谷・下草谷・野寺新・印南新・野寺の6ヵ村。これら6ヵ村は明治22年4月1日合併して母里村となる)

     新祖額では、村が潰れてしまう!

 そして、明治11年7月24日、新祖額が申し渡される日をむかえました。

 印南新村の丸尾茂平次は、気がすすまぬまま、姫路妙光寺へ出かけました。

 会場には各戸長(村長)の代表等数百人が集まっていました。

 県の掛長は、はっきりした声で述べました。

 「それでは各改正掛より新祖額をお渡しする。よく確かめて印を押されたい」新祖額が戸長(村長)代表に渡されました。

 茂平次は、体のふるえが止まりません。

 内示の額とほとんど変わっていないのです。

 印南の東部6ヵ村の代表は改正係を取り巻いて、その不当な祖額をなじりました。

 印南野でも、この6ヵ村が特に厳しい祖額の申し渡しになりました。

 祖額は、旧祖額(江戸時代の年貢率)と比べて蛸草新村は4.96倍、野谷新村は3.49倍、印南新村は3.44倍、野寺村は3.3倍、下草谷村は2.25倍でした。

 比較的少ない草谷村でも1.76倍でした。

 掛長は、「新しい制度には不備があろうが、猶予のならぬときである。・・・・きょうの六か村の祖額が間違いであったとしても、いずれ正される。だから、今日は、ひとまず調印されたい・・・」というのが精一杯でした。

 6ヵ村の戸長(村長)は、「県令」の強引なやり口をしっていました。

 どうしようもないことを知っていました。

 「(間違いは)いずれ正される」ことに期待し、印南新村を除いてしぶしぶ調印しました。

 印南新村の丸尾茂平次だけは調印をことわりました。

 こんな租税を受けると、村は潰れてしまう・・・(no5024)

 *『赤い土(小野晴彦著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

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北条直正物語(11) 県令、早期の地租改正を迫る

2020-07-10 07:11:45 |  北条直正物語

 廃藩置県(明治4年・1871)後、兵庫県の県域はめまぐるしく変化しました。

 少し、説明しておきましょう。

 明治4年11月2日、現在の兵庫県は図のように豊岡県、兵庫県、名東県(みょうどうけん)、に再編されました。

 その内、姫路県は、1週間後の11月9日に県名を飾磨県と変えています。

 これは旧姫路藩が徳川幕府での最後の大老を出すなど、朝敵藩であり、「姫路」という名称が新政府に嫌われたためだといわれています。

 明治9年8月21日、それら4つの県が合併して大きな兵庫県となりました。

 これは、「神戸港をもつ兵庫県が貧弱な県であってはならない」という大久保利通の考えによるものでした。

    県令、早期の地租改正を迫る

 森岡昌純は、飾磨県の県令でしたが、明治9年9月4日、東京・京都・大阪に次ぐ大兵庫県の初代の県令に任命されました。

 森岡は、自信と満足感でいっぱいで、心に「地租改正」の早期実施を誓うのでした。

 初登庁の日です。

 県会議員や職員が集まり、森岡は第一声を発しました。

 彼は、少しばかり県政を述べただけで、さっそく当面の仕事の話題にはいりました。

 以下、小説『赤い土』(小野晴彦著)から引用します。

 ・・(初登庁での演説)・・

 「さっそくであるが、いま、われわれが早急にとりくまなければならぬ仕事は「地租改正」である。

 この改正については、改正条例ならびに改正規則、地方官心得が出されてすでに三年を過ぎ、諸士もよく存じていることと思う。

 県下各地の耕地丈量は全て終えているであろうから、これより直ちに、地価の評価と地租の算定を急いでもらいたい。

・・・・」

 森岡は、各地の丈量が終わっていないことをよく知っていたが、すでに終えたかのような話しぶりでした。

 部下の気持ちを奮い立たせたのです。

 以後、県令の意を受けて、地租改正の作業は急ピッチで進められました。

 そして、明治11年、新地租(税率)が各村々に申しわたされたのです。(no5023)

 

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北条直正物語(10) 県令・森岡昌純

2020-07-09 10:25:56 |  北条直正物語

       地租改正

 現在、中学生がつかっている歴史教科書(大阪書籍)に、「地租改正」を次のように説明しています。

 「・・・政府は、まず土地を所有する権利を認めて、田畑の売買を自由にしました。

 次いで、1873(明治6)年から、全国の土地の面積やよしあしを調べ、土地の値段である地価を定めました。

 土地の所有者には地券をあたえ、土地の3%にあたる額を地租として、貨幣で納めさせることにしました。

 これにより、土地についての税金の負担と集め方は、全国一律となりました。

 これを地租改正といいます。・・・江戸時代の年貢の総量と同様になるように計算されており、全体として農民の負担は軽くなりませんでした」

 その後、各地で地租改正に反対する激しい運動がおこり、これに押された政府は明治10年に地租を地価の2.5%に切り下げています。

     県令・森岡昌純

 飾磨県令(知事のこと)は、森岡昌純(もりおかまさずみ)で、まさに官僚主義そのもののような人物でした。

 *明治9年、兵庫県・豊岡県・名東県そして飾磨県が合併して現在の兵庫県となりました。(飾磨県は、江戸時代の姫路藩を範囲としている)

 森岡は、県令になると、官吏が政治談議することを禁止し、自由民権運動を警察の力で弾圧しました。

 また、彼は徹底した新聞嫌いで、県庁への新聞記者の立ち入りを禁止し、教師や生徒が新聞を読むことを禁じたりしました。

 こんな森岡が兵庫県の地租改正の先頭にたって指導することになったのです。

 富国強兵を急ぐ新政府にはこんな人物が必要でした。

     県令の陣頭指揮

 さっそく、明治8年(1875)、地租改正の基礎となる地価を決める土地の測量に取りかかりました。

 測量の打ち合わせの会が行われました。この時、森岡みずから出むき意見を述べています。

 以下は『赤い土』からの転載です。

 「・・・この度の丈量にあたっては公正正確をむねとし、一日も、はよう完了してもらいたか。

いま、わが国は欧米列強の脅威のなかにあって、強か国ば急ぎつくらねばなりもうはん。

ところで、なんことしようにも、そいには財源が必要でごわす。

 地租改正は、今までの不公平な貢租を改めることにもなりごわすが、それより国の財政確立にありもす。

 今回の丈量がそのもととなることをよく承知して、急いでもらいたか・・・」

 森岡県令は、実行の人でした。厳しい地租改正が予想されました。(no5022)

 

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北条直正物語(9) 『母里村難恢復史略』

2020-07-08 08:14:10 |  北条直正物語

 「北条直正物語」(1~8)』は、これからの「北条直正物語」の予備知識です。

 それでは、「北条直正物語」の本番です。

 

         『母里村難恢復史略』

 稲美町に『母里村難恢復史略(もりそんなんかいふくしりゃく)』(以下『難恢復史略』)があります。

 著者は、北条直正(ほうじょうなおまさ)です。

 

 明治12年、加古川の寺家町に「加古郡役所」が設置されました。

 北条は、県から任命された初代・加古郡の郡長です。

 彼は、水と貧困にあえいだ母里地区の状況を記録し、淡河川・山田川からの疎水を造り上げた先人の記録を『難恢復史略』にまとめました。

 そこに書かれた記述は、まさに稲美町の先人の壮烈な記録です。

     小説『赤い土』

 ここに一冊の本があります。小説『赤い土』(写真)です。

 著者は、小野晴彦さん(姫路市夢前町護持在住)です。

 小野晴彦さんは、元小学校の校長先生で、担任をされていた時に4年生の社会科で、身近な教材を探していたときに『難恢復史略』を紹介され、教材として活用されていました。

 水不足で貧困にあえぎながらも、県・政府を動かし、台地に水を引くために苦労を重ねた先人たちの苦労を語り伝えようと、定年退職後の1992年春、『恢復史略』を小説『赤い土』として、まとめられました。

 要点だけになりますが、しばらくは『赤い土』に添って、先人の熱と汗と恨みと喜びの跡を、たどることにしましょう。(no5021)

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北条直正物語(8) 印南新村の免相は一割 

2020-07-07 08:38:23 |  北条直正物語

    印南新村の免相は一割 

 *「免相(めんあい)」は、年貢率のことです。

 江戸時代の年貢は、百姓個人にではなく、村にまとめて課されました。

 それを庄屋が中心になり、村人に年貢として割り振るのです。

 それにしても、印南新村の免相は、驚くばかりの低さです。

 下の印南新村に残る、宝暦十年(1760)の「年貢免状」を読んでみましょう。

     辰年免相之事  印南新村

  一、高 四百八拾弐石三斗九升      新田

     取米 五拾四石九斗五升弐合    壱ツ壱分四厘

  一、高 百九拾五石弐斗九升二合     新田

     取米 二拾弐石二斗九升二合    壱ツ壱分四厘

  一、高 参百四拾九石七斗八升六合    新田

     取米 参拾九石八斗七升六合    壱ツ壱分四厘

 なんと、印南新村の免相は約1割です。

 税は年貢だけではないのですが、この免相の低さは特別です。

 当時の年貢は、生産の高い村々は高く、少ないところは低くおさえられていました。

 生産の少ない地域から多くの税を取れなかったのです。

 印南新村からは、約1割より多くの年貢を取れば、百姓の生活が成り立たないということです。

 もっとも、免相(税率)が低いのは、母里地区の村々に共通していますが、とりわけ印南新村の人々の生活は貧しかったようです。

 それでも、将来に希望を持って、この地を離れようとしませんでした。

 印南新村の農民の願いは「水」でした。(no5020)

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北条直正物語(7) 水がない

2020-07-06 06:27:14 |  北条直正物語

    水がない

 印南新村の話です。

 印南新村の土地は、一段高くなっています。

 高い土地であると言うことは、当然水が得にくい地域ということです。

 土地が高くても、田を潤す川があればよいのですが、ここにはそんな川はありません。

 そのためか、開発も他の地域よりも遅れてはじまりました。

 明細帳によれば、印南新村の開発は正徳二年(1727)のことです。

 『加古郡史』によれば、「・・正徳元年、摂津境の嘉右衛門というものが開発し、大庄屋に任命された」とあります。

     印南新村:民間委託事業

 加古新村の開発と違うのは、印南新村の開発は商人による開発であったことです。

 17世紀の新田の開発は、多くの場合藩の援助でおこなわれています。

 やがて藩の財政は、火の車となり、開発の援助どころではなくなりました。

 18世紀の新田開発は、もっぱら商人の財力による開発にたよるようになります。今日の言葉では、民間委託です。

 印南新田もこのような新田開発の一つでした。

 もう一度、強調しておきます。印南新田は、高い土地の新田でした。

 灌漑用水の確保はきわめて困難でした。

 印南新田では、新たに池をつくろうとすると、その都度、近隣の村々から抗議がありました。

 近隣の村としても、自分たちの村に流れてくる水が少なくなることは死活問題ですから当然です。

 しかし、印南新村には、民間委託の開発のため加古新村の場合のような藩のバックアップがありません。

 そのため、新村をつくり、それまでの用水権に入りこむことは容易なことではありませんでした。

 それでも、印南新村の百姓は、水に苦しみながらも印南野台地に夢を託しました。しかし、天は非情でした。

 台地を湿らせる、わずかばかりの雨さえ奪うことが、しばしばでした。(no5019)

 

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北条直正物語(6) 稲美町の開発

2020-07-05 08:17:53 |  北条直正物語

 稲美町の開発の歴史を簡単に整理しておきます。

 地図をご覧ください。

     岡にぶつかり水は南と西へ

 天満大池の東を南北に走る道を北へ行くことにします。

 印南野台地の真ん中といっても、単調なやや傾斜のある平らな台地ばかりではありません。

 多少の凹凸のある地形を作っています。

 特に、琴池あたりから北へは、急な坂になり稲美中央病院・愛宕神社辺りで、山のようになり、そこを過ぎると今度は急な坂を下ります。

 そして、低地部を過ぎ加古大池の西側にでます。

 雌岡山の方向から流れ出した水は、稲美中央病院のある岡に妨げられ、南の天満大池の辺りに流れ、他方風呂谷辺りの水は「入が池(にゅうがいけ)」辺りにあつまり、曇川となり北山(集落)を流れ下ります。

     水が育てた古代の集落

 地図で白のところの村々は、古代から開発が進んだ地域です。

 野寺・北山村あたりは、入が池の方向に流れだした水で、古代から開発されました。

 そして、岡・国安・中(村)・六分一・森安村あたりは、南へ流れた水が天満大池をつくり、古くから開発されています。

     江戸時代前半の開発

 赤く塗りつぶした辺りの集落は、戦国時代に発達した土木技術と藩の積極的な新田村開発の意欲で江戸時代初期に開発されました。

       江戸時代中期の開発

緑に塗りつぶした野谷新村・蛸草新村・印南新村は、稲美町区域では高く、近くには川がなく水の得にくい地区でした。

それに、池をつくり村を開拓するにも、その流にある旧の村々から「上流に池をつくると水が少なくなる」と反対がありました。

そのため開発が遅れました。(no5018)

以上が、稲美地区開発の簡単な歴史です。

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北条直正物語(5) 印南野台地(4)・印南野台地は北と東に高い台地

2020-07-04 09:09:56 |  北条直正物語

    印南野台地は北と東に高い台地

 高薗寺の西の道を「さくらの森公園」へ歩いてみると、急な下り坂で、その底を草谷川が流れています。

 草谷川を越えると再び「さくらの公園」へと上り坂になっています。

 草谷川は、谷の底を流れる川です。

 この辺りは、曇川と比べて海面からの高度が高く、従って、草谷川の方が急流で侵食力が強かったためです。

 「地形図の概略図」(『稲美町史・p1104』より)をご覧ください。

 草谷川の川沿いは、北側が約15㍍の崖を、南側は約10㍍の崖が続いています。

 これは草谷川の浸食により、つくられた崖です。

 南の曇川辺りは、約130分の1の勾配に対して、草谷川は100分の1と急な勾配です。

 つまり、草谷川は100㍍で1㍍低くなる急斜面となっています。

    草谷川は加古・天満地区も潤おす

 草谷川は、急な斜面を流れ下ります。

 下流と上流の高低差が大きくなっています。

 つまり、草谷川の川沿いは急斜面となっており、比較的近い上流が高くなっています。

 そこから取水した水は、草谷川の南の崖を越え、加古地区・天満地区へも流れます。

 大溝用水(おおみぞようすい)は、その代表的な用水です。

 稲美町は坂の町です。

 水は流れくだり、普段は、あまり水がありません。

    草谷川は暴れ川

 しかし、雨の日が続く梅雨の時期、または激しい台風の時などは、しばしば暴れ川となり、洪水を引きおこしました。

 そのため、集落は洪水を避けるため、草谷川からの少し高くなった段丘面に発達しています。(no5017)

 *図:印南野台地は東・北に高く勾配の台地です。

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北条直正物語(4) 印南野台地(3)・降水量

2020-07-03 09:48:01 |  北条直正物語

     印南野台地(3) 降水量 

 印南野台地は、水を貯めにくいジャリまじりの土からできています。

 それに、水を集める範囲が狭まく、雨が少ない地域で、農業にとってまさに、不向きな地域です。

 そのため、印南野台地の開発は、ずいぶん遅れました。

 今回は、稲美野台地に降る雨についてみておきましょう。

    稲美町の降水量

 図で、兵庫県の年間降水量を確かめてください。

 平均降水量は、日本海側で多く2000~2250mmで、印南野台地付近は1250mm前後で、1000mmの開きがあります。

 印南野は、きわめて雨の少ない地域です。

 一月にいたっては、北部が250mmの降水量に対して、50mmと日本海側の1/4~1/5の程度の量しかありません。

 兵庫県北部の冬の降水量は、もちろん雪です。

 積もった雪は、地上に長くとどまり、徐々に土地に浸み込み、地下の水源となります。

 この地下水が、灌漑用水として稲を育ててきました。

 雪が、交通の妨げになり邪魔者扱いされるようになったのは最近のことです。

 夏の降水量は、北部も瀬戸内地方もあまり大きな差はありません。

     苦難に立ち向かった人々

 印南野台地には多くの多く溜池がありますが、水利権のために、水源からの水は、農閑期にしか溜池に引き、貯めることができませんでした。

 雨が少ないことは、台地の農業にとって決定的な条件でした。

 つまり、印南野台地は、地質的な、地形的な、そして少ない降水量と言う不利な条件の中で農業をいとまなければならなかったのです。

 さらに、水利権という社会的な条件が加わります。

 そんな祖先の足跡をたどることにしましょう。(no5016)

 *図:兵庫県の降水量

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北条直正物語(3) 印南の台地(2)・印南野台地は海の底

2020-07-02 07:58:49 |  北条直正物語

    印南野台地(2) 印南野台地は海の底

 地図をご覧ください。

 印南野台地は、どのように形成されたのでしょうか。

 この図は50~60万年前ごろの海岸線・水際線(推定)です。(図は『加古川市史(第一巻)』より)

 現在の印南野台地は海の底でした。

 この海に川を中心として周辺の土地から土砂が猛烈に流れ込みました。

 土砂は、海底では比較的平に堆積します。

 今度は、印南野台地にあたる海底の部分の隆起がはじまり、比較的平らな海底であった海底が徐々に地上に姿を現しました。

 そして、平らな土地をつくりました。

 これが印南野台地です。

 現在でも印南野台地の隆起は続いています。

 隆起の速度は、平岡町辺りでは年間0.125mmで、東の明石市魚住町辺りでは0.35mmとなっています。

 この一段高い地形は、海底であったため、積もった砂や小石まじりの地層でできており、水はたちまち復流水となり地表に大きな川をつくりません。深い井戸にも湧く水は多くありませんでした。

 そのため、印南野台地は水が得にくい土地で、長い間住む人を遠ざけてきました。(no5015)

 *図:50~60万年前ごろの海岸線・水際線(推定)。(『加古川市史(第一巻)』より)

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