地図で淡河川・御坂(サイフォン)・練部屋(ねりべや)を確認ください。
疎水工事は、淡河川の取水口から練部屋までの疎水です。練部屋から流れ出た水は、各支線を流れ、印南台地を潤すことになります。
取水口、山田川から淡河川に変更
疎水に対する国の動きに、近隣の村々も参加を願い出ました。
母里6ヵ村としても仲間が増えれば負担も軽くなります。
双方の利害が一致して水利組合の組織は大きくなりました。
19年には関係6ヵ村に加古新村、天満地区の10ヵ村、それに平岡の高畑村・土山村そして二見の東二見村・福里村が加わり21ヵ村となり、名前も「印南新村外20ヶ村水利組合」となりました。
内海県令(森岡県令は明治18年に中央へ転出)は、この疎水事業に意欲的でした。
県令みずから加古川まで出向き、21ヵ村の戸長(村長)と請願委員を郡役所に集めました。
「・・・・私は、前県令からこの計画を引き継ぎました。国に工事費9万円の借り入れを願ったのですが半額の4万5千円程度が限度と思われます。
それでも、この工事を受けるかどうか重大なことなので、よく考えて欲しい・・・・」
新しく組合に加わった村々の代表は、どのくらいの工事費になるのか不安でしたが、何とか各村々の負担も決めることができました。
内海県知事(明治19年度より県令から県知事に改称)は、水利土工費を国に申請しました。
サイフォンって何?
内務省に、より精密な調査を依頼しました。
内務大臣の山県有朋(やまがたありとも)は、洋式土木を学んだ新進気鋭の田辺儀三郎技師を派遣してきました。
調査の結果は、人々を困惑させるものでした。
山田川線は、シブレ山が険しく岩がもろく、はじめに見積もった工事費ではとてもおぼつかない。
淡河村木津で取水すれば、平地を楽に掘り進めることができる」と言うものでした。
地図をご覧ください。
でも、この路線は志染村御坂(しじみむらみさか)で、いったん低地(志染川)をこえなければならないので、いままで誰も注目した者はありませんでした。
田辺技師は、ここを鋼鉄のサイフォンで水を通すというのです。
人々は、「なんぼ世の中が変ったいうたかて、いっぺん下ろした水が上がるやなんて、そんなええかげんな話聞いたことがないわ・・・」と不思議がるばかりでした。
郡長は、サイフォンについて何度も何度も説明しました。
そして、新しい路線の工事が認められました。(no5042)
*地図は『兵庫のため池』(兵庫県農林水産部)からお借りしました。
*写真:現在の御坂(みさか)サイフォン