ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

北条直正物語(30) 取水口、山田川から淡河川に

2020-07-29 10:43:05 |  北条直正物語

 地図で淡河川・御坂(サイフォン)・練部屋(ねりべや)を確認ください。

 疎水工事は、淡河川の取水口から練部屋までの疎水です。練部屋から流れ出た水は、各支線を流れ、印南台地を潤すことになります。

    取水口、山田川から淡河川に変更

 疎水に対する国の動きに、近隣の村々も参加を願い出ました。

 母里6ヵ村としても仲間が増えれば負担も軽くなります。

 双方の利害が一致して水利組合の組織は大きくなりました。

 19年には関係6ヵ村に加古新村、天満地区の10ヵ村、それに平岡の高畑村・土山村そして二見の東二見村・福里村が加わり21ヵ村となり、名前も「印南新村外20ヶ村水利組合」となりました。

 内海県令(森岡県令は明治18年に中央へ転出)は、この疎水事業に意欲的でした。

 県令みずから加古川まで出向き、21ヵ村の戸長(村長)と請願委員を郡役所に集めました。

 「・・・・私は、前県令からこの計画を引き継ぎました。国に工事費9万円の借り入れを願ったのですが半額の4万5千円程度が限度と思われます。

 それでも、この工事を受けるかどうか重大なことなので、よく考えて欲しい・・・・」

 新しく組合に加わった村々の代表は、どのくらいの工事費になるのか不安でしたが、何とか各村々の負担も決めることができました。

 内海県知事(明治19年度より県令から県知事に改称)は、水利土工費を国に申請しました。

     サイフォンって何?

 内務省に、より精密な調査を依頼しました。

 内務大臣の山県有朋(やまがたありとも)は、洋式土木を学んだ新進気鋭の田辺儀三郎技師を派遣してきました。

 調査の結果は、人々を困惑させるものでした。

 山田川線は、シブレ山が険しく岩がもろく、はじめに見積もった工事費ではとてもおぼつかない。

 淡河村木津で取水すれば、平地を楽に掘り進めることができる」と言うものでした。

 地図をご覧ください。

 でも、この路線は志染村御坂(しじみむらみさか)で、いったん低地(志染川)をこえなければならないので、いままで誰も注目した者はありませんでした。

 田辺技師は、ここを鋼鉄のサイフォンで水を通すというのです。

 人々は、「なんぼ世の中が変ったいうたかて、いっぺん下ろした水が上がるやなんて、そんなええかげんな話聞いたことがないわ・・・」と不思議がるばかりでした。

 郡長は、サイフォンについて何度も何度も説明しました。

 そして、新しい路線の工事が認められました。(no5042)

 *地図は『兵庫のため池』(兵庫県農林水産部)からお借りしました。

 *写真:現在の御坂(みさか)サイフォン

 

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