疎水計画は動き出したが
疎水建設は動き出しました。が、喜んでばかりはおれません。
いぜん未納地租は残ったままでした。
(明治19年)11月、鐘が鳴らされた。人々は役場へ急ぎました。
吏員が、地租不納処分のために村に来たのです。村人たちはたまった不満をぶちまけた。
「疎水ができるのに殺生や、水が来るまで待てんのかいな」
「土地買うた者が儲けて・・・、お前等金持ちの味方ばっかりするんかいな」
郡の吏員は何も言えませんでした。
怒りに檄した村人たちに、戸長の岩本もなだめようもなかったが、吏員と話してもらちのあく問題でもありません。
新郡長は「疎水の話が持ち上がって土地の値段もあがったし、売りやすくなったはずだ。売って納めるのがいやなら公売にするまで・・」と手かげんをしませんでした。
不納者440人の畑地140町が処分されてしまいました。
この時、6ヵ村730戸の農地7分の4以上の土地を奪われてしまったのです。
その、ほとんどが土地を営々として開墾してきた小百姓の土地でした。
牛の餌じゃ
この時(明治19年)のひとりの農民の様が、『母里村難恢復史略』に記されています。
以下のような内容もあります。
・・・・
3畳敷ばかりの藁小屋の隅で、年老いた農夫が釜でなにやらに煮物をしていました。
農夫は、突然の来訪者におどろいたようすでした。
「だれじゃいな」
「役所から来たんやが、だれもおらへんおかいな」
吏員は、釜の中をのぞいてみたくなりました。
老農夫は、あわててその手を押さえました。
「見たらあかん」「中のぞかんといてくれ」
悲鳴にも似た声でした。吏員は、一瞬ひるんだが蓋をはずしました。
煮えた釜には麦らしいものが浮かんでいましたが、ほとんどが藁でした。
「牛の餌やないか」
いくら貧乏でも牛並みのものを食べているとは知られたくなかったのでしょう。
税金の話どころではなくなりました。
郡吏は、だまってポケットから20銭を取り出すと、そっとかまちに置いて、「これで税金はろとけ」
そう言うと、後もみずに出ていきました・・・
*小説『赤い土』小野晴彦氏は、この『母里村難恢復史略』(北条直正著)をベースに物語にされています。(no5041)
*写真:『母里村難恢復史略』(北条直正著)