ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

北条直正物語(31)  水は練部屋(ねりべや)へ

2020-07-30 10:17:45 |  北条直正物語

         水は練部屋(ねりべや)へ

 いくたの試練をのりこえて、ついに夢が実現する日が来ました。

 明治21年1月27日、淡河川疎水工事の起工式が播磨葡萄園で行われました。

 内海知事、田辺技師、県会議員、町村戸長、水利関係者らの顔がそろい、晴れた寒さ厳しい冬の日でしたが、ここばかりは華やいでいました。

 「(魚住)完治はん、よう頑張りましたな・・・」

 「皆さんのおかげです。百姓の思いは、みんなおんなじなんです・・・」

 だれかれとなく、完治に声をかけてきました。

 完治は、満ち足りたこの日の幸せをかみしめるのでした。

      ケシ山隋道は難工事

 たやすく思われた淡河川の平地の工事は、岩は崩れやすく難工事となりました。

 また、皮肉なことに工事は、しばしば雨にたたられました。

 御坂(みさか)では、水管(サイフォン)の工事が始まりました。

 人々の疑いと心配の中を工事は予定通り進み2年間で見事に完成しました。

 御坂を越えた疎水は、御坂の少し南のケシ山へと流れ下ります。

 この部分の疎水の一部は、山を貫く隋道(682m)工事となりました。

  *隋道(ずいどう)は、トンネルのこと

 ケシ山の隋道工事は、土地が軟弱で、湧水がおびただしく県の直営工事となったのですが、それでも一日60mを進めるのがやっとの難工事でした。

 21年2月に取りかかり、貫通するまで3年4ヶ月を要しました。

 ケシ山を越えた水は、ついに紫合村練部屋(ゆうだむらねりべや)の配水所に水は流下りました。

 そして、配水所の噴水口から吹き上がり、5つの排水口からそれぞれのため池へ向かうのです。

 工事費は、トンネルなどの難工事などのために大幅に増えました。

 工事もさることながら地元負担金の徴収は難航しました。

 長年の日照と重税のため、疲れきった村人とから集めることは限界に達していました。(no5043)

*写真:現在の練部屋の配水所。写真中央部(配水所から東)の山は雌岡山

 

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