水は練部屋(ねりべや)へ
いくたの試練をのりこえて、ついに夢が実現する日が来ました。
明治21年1月27日、淡河川疎水工事の起工式が播磨葡萄園で行われました。
内海知事、田辺技師、県会議員、町村戸長、水利関係者らの顔がそろい、晴れた寒さ厳しい冬の日でしたが、ここばかりは華やいでいました。
「(魚住)完治はん、よう頑張りましたな・・・」
「皆さんのおかげです。百姓の思いは、みんなおんなじなんです・・・」
だれかれとなく、完治に声をかけてきました。
完治は、満ち足りたこの日の幸せをかみしめるのでした。
ケシ山隋道は難工事
たやすく思われた淡河川の平地の工事は、岩は崩れやすく難工事となりました。
また、皮肉なことに工事は、しばしば雨にたたられました。
御坂(みさか)では、水管(サイフォン)の工事が始まりました。
人々の疑いと心配の中を工事は予定通り進み2年間で見事に完成しました。
御坂を越えた疎水は、御坂の少し南のケシ山へと流れ下ります。
この部分の疎水の一部は、山を貫く隋道(682m)工事となりました。
*隋道(ずいどう)は、トンネルのこと
ケシ山の隋道工事は、土地が軟弱で、湧水がおびただしく県の直営工事となったのですが、それでも一日60mを進めるのがやっとの難工事でした。
21年2月に取りかかり、貫通するまで3年4ヶ月を要しました。
ケシ山を越えた水は、ついに紫合村練部屋(ゆうだむらねりべや)の配水所に水は流下りました。
そして、配水所の噴水口から吹き上がり、5つの排水口からそれぞれのため池へ向かうのです。
工事費は、トンネルなどの難工事などのために大幅に増えました。
工事もさることながら地元負担金の徴収は難航しました。
長年の日照と重税のため、疲れきった村人とから集めることは限界に達していました。(no5043)
*写真:現在の練部屋の配水所。写真中央部(配水所から東)の山は雌岡山
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