稲美町の開発の歴史を簡単に整理しておきます。
地図をご覧ください。
岡にぶつかり水は南と西へ
天満大池の東を南北に走る道を北へ行くことにします。
印南野台地の真ん中といっても、単調なやや傾斜のある平らな台地ばかりではありません。
多少の凹凸のある地形を作っています。
特に、琴池あたりから北へは、急な坂になり稲美中央病院・愛宕神社辺りで、山のようになり、そこを過ぎると今度は急な坂を下ります。
そして、低地部を過ぎ加古大池の西側にでます。
雌岡山の方向から流れ出した水は、稲美中央病院のある岡に妨げられ、南の天満大池の辺りに流れ、他方風呂谷辺りの水は「入が池(にゅうがいけ)」辺りにあつまり、曇川となり北山(集落)を流れ下ります。
水が育てた古代の集落
地図で白のところの村々は、古代から開発が進んだ地域です。
野寺・北山村あたりは、入が池の方向に流れだした水で、古代から開発されました。
そして、岡・国安・中(村)・六分一・森安村あたりは、南へ流れた水が天満大池をつくり、古くから開発されています。
江戸時代前半の開発
赤く塗りつぶした辺りの集落は、戦国時代に発達した土木技術と藩の積極的な新田村開発の意欲で江戸時代初期に開発されました。
江戸時代中期の開発
緑に塗りつぶした野谷新村・蛸草新村・印南新村は、稲美町区域では高く、近くには川がなく水の得にくい地区でした。
それに、池をつくり村を開拓するにも、その流にある旧の村々から「上流に池をつくると水が少なくなる」と反対がありました。
そのため開発が遅れました。(no5018)
以上が、稲美地区開発の簡単な歴史です。