ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

北条直正物語(16) 北条直正、加古郡長に就任

2020-07-15 11:23:42 |  北条直正物語

   北条直正、加古郡長に就任

     草谷新村、旧税の11.23 

 新祖額の調査が遅れて、発表が11年(1878)となったため、11年の末に納める額は、9・10年度の分が加算されました。

 旧税の実に6倍という常識を超える額となったのです。

 明治11年、印南東部6ヵ村(現:稲美町母里)の旧税に対する倍率を『稲美町史』からひろっておきます。(『稲美町史』426p)

 印南新村7.17倍、野谷新村7.32倍、草谷村2.7倍、野寺村6.80倍、草谷新村11.23倍、下草谷4.00倍でした。

 旧税も納められないことがしばしばありました。

 それなのにこの数字はなんとしたことでしょう。

 悪い時には悪いことが重なるのが常のようです。

 明治9・10年は、またもやこの地方に旱魃が襲いました。母里地区は田の植え付けは例年の40%に減らしました。

 畑は30~40%の植え付けとなりました。

 こんな年は、旧藩なら当然減税の上、救助米が支給されました。

 地租改正は、凶作により税の減収をなくすことを目的にしていましたから、凶作でも減税はありません。

 お救い米もありません。

 その上、当地方の経済を支えていた綿作が、神戸港開港にともない安い、良質な外国綿の増加で、綿作は急激に衰退します。

 待ったなしです。 

 方法は2つしか考えられません。

 一つは地価の修正を県に嘆願すること、もう一つはこの地に水をひくことです。

     北条直正、加古郡長に就任

 幸運がひとつできました。

 明治12年1月、制度が変わり、郡が復活し北条直正が加古郡長として赴任して来ました。

 北条は、役人でありながら当地方の窮乏にきわめて同情的で、水利事業を高く評価していた人物でした。(no5028)

 *写真は加古郡・郡役所(寺家町)

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