北条直正、加古郡長に就任
草谷新村、旧税の11.23倍
新祖額の調査が遅れて、発表が11年(1878)となったため、11年の末に納める額は、9・10年度の分が加算されました。
旧税の実に6倍という常識を超える額となったのです。
明治11年、印南東部6ヵ村(現:稲美町母里)の旧税に対する倍率を『稲美町史』からひろっておきます。(『稲美町史』426p)
印南新村7.17倍、野谷新村7.32倍、草谷村2.7倍、野寺村6.80倍、草谷新村11.23倍、下草谷4.00倍でした。
旧税も納められないことがしばしばありました。
それなのにこの数字はなんとしたことでしょう。
悪い時には悪いことが重なるのが常のようです。
明治9・10年は、またもやこの地方に旱魃が襲いました。母里地区は田の植え付けは例年の40%に減らしました。
畑は30~40%の植え付けとなりました。
こんな年は、旧藩なら当然減税の上、救助米が支給されました。
地租改正は、凶作により税の減収をなくすことを目的にしていましたから、凶作でも減税はありません。
お救い米もありません。
その上、当地方の経済を支えていた綿作が、神戸港開港にともない安い、良質な外国綿の増加で、綿作は急激に衰退します。
待ったなしです。
方法は2つしか考えられません。
一つは地価の修正を県に嘆願すること、もう一つはこの地に水をひくことです。
北条直正、加古郡長に就任
幸運がひとつできました。
明治12年1月、制度が変わり、郡が復活し北条直正が加古郡長として赴任して来ました。
北条は、役人でありながら当地方の窮乏にきわめて同情的で、水利事業を高く評価していた人物でした。(no5028)
*写真は加古郡・郡役所(寺家町)