ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

北条直正物語(32) 初代母里村村長・岩本須三郎

2020-07-31 07:17:21 |  北条直正物語

 明治22年4月1日、蛸草新村・草谷村・下草谷村・野谷新村・印南新村・野寺村の6ヵ村が合併して母里村が誕生しました。

 その時、江戸時代の新田をあらわす新村の名称はなくなり、それぞれ母里村蛸草・下草谷・野谷・印南となりました。

 初代母里村村長として蛸草の岩本須三郎が選ばれました。

     初代母里村村長・岩本須三郎

 蛸草新村の庄屋の家に生まれた須三郎は、父を早く亡くし12才で庄屋の家をついでいます。

 戸長になってからは、納税の問題・疎水事業にと、おいたてられ続けの毎日でした。

 あるとき、郡長が気の毒そうに、「岩本さんもえらいときに村長になってでしたな」となぐさめたほどです。

 (岩本)「ほんまですな・・・でも、苦労が大きいほど、喜びも大きますし・・・」

 静かに答える須三郎の声には重みがありました。

 まさに、須三郎の人生観でした。

 しかし、「村長の言うことよう分かるが、借金だけがぎょうさんできた。なんでこんな時に疎水つくるんや、もうちょうっと時期待てへんのかいな・・・わしら、土地売るしかしょうない」と不満をもらすものも多くいました。

 (岩本)「土地売ったらあかん、もうじき水が来る。疎水の仕事や鉄道の仕事で日銭かせいで、もうちょっとがんばらなあかん」

 こういうのが精一杯でした。

 明治22年は、雨が多い年になりました。そして、秋には台風にも見舞われ、できたばかりの水路の一部も崩れました。

 金が足りない。それだけではなかったのです。工事が始まると山陽鉄道の工事もはじまったため、人夫の賃金もあがりました。

 でも地方の地元資産家は、出資には冷淡でした。

 トンネルの工事の目途はついたのですが、工事費は、目途がつきません。

 21ヵ村の惣代は「淡河川疎水工事費拝借」を国に願い出でました。

 工費拝借願いは認められなかったが、借り入れ金の返済の延納は認められました。

     水がきた・・・・

 明治24年4月7日ケシ山トンネルは貫通し、4月11日、検査のために水門が開かれました。

 淡河川の水は、勢いよく疎水に流れ出ました。

 練部屋の配水所の周りは、水を迎える多くの人々の熱気があふれました。

 水は、ゆっくりと力強く5日をかけて練部屋に流れてきました。

 うれしさのあまり、水路に跳びこむ者も大勢いました。

 喜びは、練部屋からの支線水路やため池工事に大きな励みをあたえました。

 須三郎の蛸草では早くから水路・広谷池の工事を始めました。

 野寺の穴沢池の工事もさっそくはじまりました。

 こうして各村々で相次いで工事にかかり、明治40年には印南17、下草谷6、草谷5、野寺4、野谷3の新池が築かれました。

 野寺高薗寺の東がわにある「総池之碑」には、淡河川の疎水が通じて野寺村には4つの新池と5つ増築が行われたことを記録しています。新池分を紹介しておきます。

  (新築)

  穴沢池  明治 25 年 9月起工

  野畑池  〃  27年  4月 

  小出池  〃  27年10月

  中 池  〃  28年10月(no5044)

 *写真:岩本須三郎(『兵庫県淡河川・山田川疎水百年史』より)

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