ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

北条直正物語(15) 水が欲しい

2020-07-14 10:10:11 |  北条直正物語

   水が欲しい

 印南野台地は、南と西に徐々に低くなっていいます。

 その北東隅に雌岡山(めっこうさん)が聳えています。

 雌岡山あたりに、十分な水があれば、水は比較的たやすく流れてくれる自然の地形となっています。

 しかし、高さ249.5㍍の小山では、広い台地に十分な水はありません。

 「その向こうに長く連なる丹生山(たんじょうざん)、帝釈山(たいしゃくさん)やったらもっとぎょうさん水があるやろ」と考えた人がいました。

 明和8年(1771)年、神出東村の人でした。

 名前は分からないのですが、測量図が残されていました。

 国岡新村の福田嘉左衛門は、この計画ことを知りました。

 地図をご覧ください。山田の阪本から神出(かんで)の紫田(ゆうだ)練部屋(ねりべや)にいたる水路を造ろうと考え姫路藩に申し出ました。

 文政9年(1826)のことでした。

 姫路藩としても工事の許可を出すわけにはいきません。

 取水口やそこからの水路は他藩の領地を通ることになるからです。

 そして、明治初年、打ち続く旱害の中で東村の藤本増右衛門が、またまた用水の計画をつくりましたが、この時は協力する者がいませんでした。

 明治5年(1871)、廃藩置県で藩の壁がなくなり、工事の大きな障害が一つなくなりました。

        夢の実現へ

 この年、野寺村の魚住完治は国岡新村の福田厚七、花房権大夫、神出村の西村茂左衛門とはかり、藤本増右衛門を招いて測量のことを聞きました。

 増右衛門は、自信をもっていいきるのでした。

 「でけます。ただ、工事費がかかります。一つや二つの村では、とてもやないがでけまへん・・・」

 増右衛門は、工事のことを詳しく説明しました。

 練部屋(ねりべや)から山田(点線)までは、そない難しい工事になりまへんが、ただ、シブレ山の北は谷が深うて、はかまの裾みたいになっとります。

 そやから、そのヒダにそって水路をグニャ・グニャの曲げるか、ひだに穴あけ谷に橋かけないけまへん。

 なんぼ田んぼつくっても、水がなかったらどうにもなりまへん。

 印南野の百姓が、人なみに生きようと思うたら川から水引かないけまへん。

 ・・・・・

 魚住完治は、出入りの多い地形を幾度と測量しました。

 そして、路線を変更し、見積もりを訂正しました。

 完治は、その費用のほとんどを私財で負担しました。

 練部屋まで水が来れば、後は完成できたも同然です。

 印南野台地は、適度の勾配を持つ地形です。水路をつくれば水は自然と印南野台地を流れてくれるはずです。

 夢の計画は、産声をあげました。(no5027)

 *『赤い土』小野晴彦著参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする