どこまでも続く苦難
明治時代初期の村名がしばしば登場します。地図(赤い部分)で場所を確認ください
6ヵ村(現:母里)連合会結成
明治13年3月播州葡萄園が発足しました。
疎水の話は、いつも工事費用になると前へ進みません。
旱害・重税が重なり疎水の話どころではなかったのです。
しかし、山田川疎水関係の印南新村、蛸草新村、野寺村、野谷新村、草谷村、下草谷の村々で疎水を造るための連合会がつくられました。
県・国へ働きかけることにしました。役員もぐっと若返りました。
魚住逸治23才(野寺村)、松尾要蔵29才(野谷新村)、岩本須三郎35才(蛸草新村)らを中心とし、若い熱と智恵で疎水問題が進められることが決まりました。
国からの援助消える
地元の連合会ができました。県も疎水建設に働きかけるといいます。国も山田川疎水に対して理解が生まれたと思われました。しかし、行く手に暗雲が待ち受けていました。
新政府は、西南戦争等に多額の出費があり、出費を抑えなければならなかったのです。
新政府は、明治13年、太政官代48号をだしました。
その3条には、府県が実施する工事の土木費のうち、国からの下げ渡し金を14年度より廃止するというものでした。
国からの援助金がなければ、山田川の疎水事業計画は止まってしまいます。
あんのじょう、県へ提出していた山田川疎水計画は即時「却下」されました。
厳しい税の取立て
それを追うかのように「明治14年3月25日、11・12・13年の祖額不足分を一時に徴収し、不納ものは断然処分すべし」という命令が届きました。
北条郡長は、不可能なことを県に申し入ましたが、県からの返事は「不納ものは当然のこととして、処分せよ」でした。
郡長の抵抗もむなしく、不納者の土地が公売に出されました。
神戸から数名の者が物色に来たのですが、さすがに土地にかかる重税に手出しができず入札者は一人もいませんでした。
安心はできません。次は、土地の没収がまっていました。
あいつぐ県への嘆願
印南新村は、金のできる目当てはなく、県に地租算定の基となった23円で買い上げてもらうように嘆願した。
返事は簡単なもので、「書面之趣ハ難聞届候条成規之通相可心得事(しょめんのおもむきは、ききとどけがたくそうろうじょう、せいきのとおり、あいこころえるべきこと)」
引き続き、年貢の未納期間を引き伸ばして欲しいことを県に嘆願しました。これも一蹴されました。
印南新村が嘆願書を出した頃、六か村としても地価修正の伺い書を提出しました。
前年の8月に地価の修正願いを提出していたのですが、9ヵ月を過ぎても返事は、「追って沙汰する」と言うものでした。
その間にも地租の督促は急で、6ヵ村はたまらず地租の延納を願い出ました。
良い返事は、ありません。
百姓の怒りは、沸点に達しようとしていました。(no5035)