ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

オマーン国王夫人物語(18) 「オマーン国王夫人物語」終了

2017-11-16 07:59:55 | 江戸時代、高砂の商業活動

      「オマーン国王夫人物語」終了

 時間がたつのは早いですね。

 25年ほど前になります。県立東播磨高校の東の用水(寺田用水)のことを調査するために歩いていました。

 その時、地元のOさんとお出会いしました。ひとしきり、お話をしました。

 どういうきっかけであったのか覚えていません。

 Oさんは、「この墓地にオマーン国王夫人の墓がありますよ」と教えてくださいました。

 その時は「こんな田舎にオマーン国王の奥さんのお墓があるはずがない・・・またまた、ふざけた話がつくられたものだ・・・」と軽く聞き流していました。

 その後、神戸新聞で国王夫人の姉妹のことが大きく紹介された記事を読みました。

 「おやおや!・・・」とビックリしました。

 そのため、ほとんど分からなかったのですが「ひろかずのブログ」で国王夫人のことの簡単な紹介をしておきました。

 その時も、それだけで終わっていました。

 不思議なことに、そんな記事でしたが、オマーン夫人についてのアクセスは他のテーマと違い、多くはないのですが続きました。

 それが最近、ブログを読まれたオマーンに仕事で出張された方から、オマーン国王夫人(節子さん)を紹介した著書を紹介していただきました。

 『アラビアの王様と王妃たち(下村満子著)』(朝日新聞社)です。

 それに『オマーン見聞録(遠藤晴男著)』(展望社)もあわせて何回も読みました。

 両著ともオマーン・オマーン夫人ついての誠実な紹介です。

 改めて紹介したくなり、「オーマン国王夫人物語」としてまとめました。

 いかがでしたか。

 最後に、オマーン国王妃とブサイナ妃を思い浮かべながら、オマーンの国花(赤いバラ)を紹介して「オマーン国王夫人物語」を終わります。

 お読みいただきありがとうございました。(no3782)

 *写真:オマーンの国花(赤いバラ)

 ◇きのう(11/15)の散歩(10.680歩)

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オマーン国王夫人物語(17) 親日的な国、オマーン

2017-11-15 08:42:58 | 江戸時代、高砂の商業活動

    親日的な国、オマーン
 オマーンは、東日本大震災でいち早く支援を表明、日赤に義援金、金額がアメリカ、台湾、タイについで4位でした。

 この「オマーン国王夫人物語」にあるように、現国王のカーブースの祖父は日本人女性と結婚し、現王妃ブサイナの母親(清子さん)は日本人でした。
 きっと、そうしたご縁もあったのでしょうね。

 現国王は、日本から自然や家族を大切にする価値観を学んでいます。

 また、「日本の進める平和・協調外交も参考にしている」といってはばからないほどの親日家です。

    もっと知ろう、オマーンについて

 オマーンにとって日本は最大の貿易相手国です。
 日本は、原油、天然ガス、アルムニウム、インゲン豆などを輸入しています。
 特に、われわれが冬場に食するインゲン豆の9割はオマーン産です。
 「3・11」東日本大震災の直後、オマーンからは1000万米ドルの義捐金やLNGの追加供給の申し出がありました。
 それに加えて、福島県南相馬市にある「落合工機」という会社に浄水器700台、大型浄水器14台の計26億円の発注がありました。

 しかも、驚いたことに、その発注に際し、「注文した浄水器は被災地でまず活用して下さい。わが国に送って届けてもらうのは、その後で結構です」との但し書きが付いていたことでした。(浜田和幸氏のブログより)

 私は、この「オマーン国王夫人物語」を纏めるまで、オマーンという国はサッカーで、その名前を知っているものの、それ以外の知識は皆無でした。

 オマーンは、もっと知るべき国のようです。

 いま、『オマ-ン見聞録(遠藤晴男著)』(展望社)を読んでいます。

 「オマーン国王夫人(清子)さん」についてはもっと紹介されてもよい物語です。 

 まして、私たちにとって身近な地域の歴史です。(no3781)

 *写真:東日本大震災(岩手県宮古市、2011年3月撮影)

 ◇きのう(11/14)の散歩(12.581歩)

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オーマン国王夫人物語(16) ブサイナ姫の墓参

2017-11-14 12:59:03 | 江戸時代、高砂の商業活動

 前号(no16)の清子さんの最後の日記をもう一度お読みください。

 清子さんの悲痛な叫び声が伝わってくる文章です。

    ブサイナ姫の墓参

 ブサイナ姫は、1978年に38年ぶりでターリック殿下とともに日本を訪問されています。

 お母さん(清子)の墓参のためです。

 その5年前に朝日新聞の下村記者との「必ず母の墓参に日本に行きたい」との誓いを果たされたのです。

 稲美町の墓に参られ、たくさんの親戚の方ともお会いになりました。

 この時、ブサイナ姫は、墓前で声をあげて泣き崩れたとのことです。

 *墓碑は、兵庫県立東播磨高校の前の大沢公園墓地にあります。

    神戸への訪問   

 墓参の後、神戸市内の両親の想い出の場所も散策されました。

 特に、両親の新婚生活の場であった葺合区の瀟洒な洋館も訪れ、ブサイナ姫はその塀を何度もさわりながら、「覚えている」とささやかれたそうです。

 今、この文は『オマーン見聞録(遠藤晴男著)』(展望社)を参考にさせていただいています。

 遠藤氏によれば、「下村氏は、ブサイナ王女とあった最初の日本人でもあり、その後も誰もあったという話は聞いていない・・」また、「ちなみにブサイナ姫は今もマスカット(オマーンの首都)市内で健在に過ごされている」と付け加えられています。(no3780)

 *写真:母の墓への墓参するブサイナ妃(テレビ番組TBS:アンビリーバボーより)

 ◇12日の散歩(10.288歩)

    きのう(11/13)の散歩(10.160歩)

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オマーン国王夫人物語(15) 清子さんの最後の日記

2017-11-11 21:15:01 | 江戸時代、高砂の商業活動

        ブサイナ姫にあう

 かたわらにいた、ターリック殿下は席をすすめてくださいました。

 ターリック殿下は、通訳をしてくださいました。

 「妹(ブサイナ姫)は、アラビア語以外話せないのです。

 今日は、私が通訳いたしましょう。本当ならば女性の通訳を方でもお願いして、女だけで和気あいあいでやっていただく方がよいのですが、何しろブサイナの出生に関する話には他人が介入してほしくないものですから・・・。おわかりでしょう? 

 これは、本当は内緒にして話にしておきたいのです。

 

 前国王のサイードは、ブサイナ姫を完全なオマーン人として育てることにありました。

 日本を離れた以上母親の国と全く断ち切ってしまおうという方針でした。

 私(ターリック殿下)は、日本の親戚の方と連絡をつけてやりたいと、手を尽くしたのですが、私自身、1962年、兄の政治に政治的に反対してオマーンをさり、以後はブサイナ姫とも会うことができなくなってしまいました。

    ブサイナ姫の形見

 三人での話の途中、ブサイナ姫は席を立って何かを抱えて帰ってこられました。

 「これは母が亡くなった時、一つの箱の中にまとめて入っていたものだそうです。

 日本語ですので、何が書かれているかわかりませんが、母の形見として大切に持っておりました。今まで誰にもお見せしたことがないのですが、何が書いて有る可読んでいただけないでしょうか」

 なんと、それは、母の清子さんがタイム―ル王との愛の生活を2年間欠かさず毎日したため日記でした。

 日記は、昭和13年1月1日から14年6月までほとんど欠貸さずつけられていました。

 14年春ごろ、病気が悪化してからは筆も乱れ、清子さんの心痛が胸にせまります。最後に日記から5ヵ月後に清子さんはなくなりました。

    最後の日記(昭和14年6月11日)

 ・・・私はどうしてこのような不幸な体になったのかと思い、自然に泣けてくる・・・神様ァ。

 神様、病気をするまでの私の朗らかな心はどこ。

 本当の自分の毎日の気持ちは、自殺をしたいと思う位だ。

 ・・・ブサイナのために生きたい・・・道行く人々はみな楽しそうだ。

 そうして、私だけがこう苦しい。病魔に負けてたまるか。勝たなければならない。

 かわいいブサイナのために。神様、何卒お見方下さい。我が子でありながら、そばへも寄っていけない。かわいいと思えばこそ、我が子の手にもさわれない。

 この病気さえなければ、と幾へん考えることか・・・(no3779)

 *写真:ブサイナ姫とターリック前首相(『アラビアの王様と王妃たち』より)

 ◇11/11の散歩(13.698歩)

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オマーン国王夫人物語(14) 下村満子記者ブサイナ姫と会う

2017-11-11 07:15:56 | 江戸時代、高砂の商業活動

 以下は、『アラビアの王様と王妃たち』を引用しています。

 朝日新聞記者・下村満子さんの記事の文体を少しだけ変えています。

    下村満子記者(朝日新聞)ブサイナ姫と会う

 朝日新聞は、かねてから秘かにターリック元オマーン首相と連絡を取っておられました。

 朝日新聞の下村記者はオマーンに着いてから連絡をとると、殿下から「・・・ブサイナ姫のことをいろいろ調べてくださってありがとうございます。

 姫は、あなたにお会いして詳しいお話を聞くのを楽しみにしています。明日ホテルに車をさしむけます。ぜひお越しください・・」という嬉しい内容でした。

 翌日ブサイナ姫の豪邸につきました。

 ・・・白い大理石の会談を上がると、左側が中庭になっており、右側の廊下づたいに部屋が並んでいます。

 その中の一つの扉を案内人があけました。

 白いカーテンを通して、明るい光の流れる部屋の中は、意外にも、白と黒を基調にした家具を並べたモダンな大広間でした。

 壁を背にして、一人の女性が座っておられました。その人がブサイナ姫でした。

 上下にアイライナーをくっきり入れた黒い大きな目。琥珀色の肌。

 背は165センチもあるでしょうか、大柄でその上肉付きの良い人でした。

 馬とオレンジの花模様の裾の長い衣装を着ておられ、オレンジ色のジョーゼットのベールの下から香油をつけた艶のいい黒い髪がのぞいています。

 どちらからともなく近寄り、手と手を軽く触れあうだけの柔らかな握手をしました。

 かすかに微笑んでおられるようでした。そして、じっと私(下村さん)を見つめられるのでした。

 アラビア人よりもずっと日本人に近い顔立ちをしておられます。(no3778)

 *写真:ブサイナ姫邸(『アラビアの王様と王妃たち(下村満子著)』より

 ◇きのう(11/10)の散歩(12.151歩)

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オマーン国王夫人物語(13) 開明的なカーブース王

2017-11-10 07:38:04 | 江戸時代、高砂の商業活動

    サイード王からカーブース王へ

 今日は、すこし、「オマーン国王夫人物語(3)」の復習をします。

 ・・・前国王・サイード国王は、外国で教育を受けた知識人でした。

 が、国民に「金を与えず、教育をあたえず、外の世界をみせない」ことが権力を保つただひとつの方法だと信じていました。

 そして、自分に批判的な息子のカーブース皇太子まで軟禁状態にしてしまったのです。

 オマーン国民は次第に不満をつのらせてゆきました。

 19707月、サイード王の一人息子のカーブース皇太子はクーデターをおこし、父から王位を奪取しました。

      開明的なカーブース王

 こうして、オマーンの暗黒政治の時代は終止符を打つことになりました。

 新しく王位についたカーブースはブサイナ姫にとっては甥にあたります。

 その後、若いカーブース(現国王)は、国民の支持を得ながら、失われた時代を取り戻すべく、今全力を挙げて近代化をという課題に取り組んでおられます。

 王位を奪われた父・サイードは、その後ロンドンに亡命しましたが、2年後の1971年に病気で亡くなりました。

 

 カーブースは、父サイードの保守的な政策とは正反対開放的、進歩的な政策を打ち出しておられます。

 ブサイナ姫は、日本人にはもちろんオマーン人にとっても秘密のベールに包まれていました。

 時代は変わり、民主的になりつつとはいえオマーンは回教国です。男性の記者は、ブサイナ妃に直接会うことはできません。

 ブサイナ姫のことを知った朝日新聞社は、女性記者・下村満子さんをオマーンに派遣しました。

 幸い、オマーンの要人・ブサイナ姫の後見人であり、異母兄である元オーマン国首相のターリック殿下と連絡を取ることができ、ブサイナ姫との面会が可能となったのです。(no3778

 *写真:現国王のカーブース王

 ◇きのうの散歩:(4.476歩)‐お見舞いのため京都に出かける‐

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オマーン国王夫人物語(12) 短かった幸せな生活

2017-11-09 07:13:37 | 江戸時代、高砂の商業活動

 日本を訪れたタイム―ルの長男サイード王が後に閉鎖的な圧制を敷いた専制君主になるのですが、この時はまだ、若く聡明な国王でした。

 *前国王サイ―ドの政治については『オマーン国王夫人物語(3)・鎖国時代から近代化へ』をご覧ください。

    短かった幸せな生活

 タイム―ルが神戸に300坪ほどの土地を買いスイートホームの建設に取りかかりました。

 ここに、「二人の愛は永遠のもの、ここを永住の地と定める」といった意味のアラビア語の文字を刻みこみました。

 このころが二人にとって一番幸せな時でした。

 しかし、幸せなときは長く続きませんでした。

 清子さんが結核に侵されたのです。このころ結核は不治の病として恐れられていました。

 タイム―ルは、清子さんを立派な病院に入れました。

 しかし、病状は悪くなるばかりでした。

 タイム―ルは困惑してしまいました。

    タイム―ル、一時神戸を離れる

 「このままでは、ブサイナ姫や自分に病気が移ってしまう・・」と考えたタイム―ルは、一時日本を離れることを決意しました。

 姫は、とりあえず清子さんの母が預かることになりました。

 その後、インドのボンベイに落ちづいたタイム―ルと清子さんの間には、何通もの愛の手紙が交換されています。

 この手紙は、後に見つかりました、後日、その一部を紹介することにします。

 タイム―ルが日本を離れて間もなく、昭和1411月、清子さんはこの世を去りました。23才でした。

 清子さんの死後いったんタイム―ルは日本へ帰りお墓(写真手前左端の墓)を建立した後、ブサイナ(当時3才)とともに日本を去りました。

 太平洋戦争の始まる直前のことでした。(no3777

 *写真:清子さんの墓碑(県立東播磨高校の前の墓地)

 ◇きのう(11/8)の散歩(11.566歩)

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オマーン国王夫人物語(11) オーマン国王サイード神戸へ

2017-11-08 09:03:36 | 江戸時代、高砂の商業活動

    オーマン国王サイード神戸へ

 ブサイナ姫の誕生直後、父タイム―ルの後を継いだ長男のサイードと、その弟のターリック殿下が日本を訪れました。

 二人はブサイナ姫にとって異母兄にあたります。

 この時に、はじめてタイム―ルが元国王であったということが、日本人に知られました。

 以下、新聞記事(昭和121224日付・神戸新聞)からの引用です。

   オマーン国王・サイード

     父(アルサイド)と清子さんに対面

 ・・・ラクダに乗った隊商が砂漠をゆきかうアラビアのオーマン国王の王位を惜しげもなくかなぐり棄て、昨年秋来朝、神戸葺合区の宏荘な洋館に・・・

 日本人の夫人をめとり、愛児までもうけ、周囲の人に、かつての王位を固く秘めて、悠々自適の生活を送っているタイム―ルを頼って、現オーマン国王でありアルサイド氏御曹司、本年28才のスルタン(王)とその御弟君で18才のターリック殿下が7名の従者を従えて、御兄弟仲睦まじく打ちそろって、世界観光のかたわら、久しく御対面のなかった御父君を異国のそらに訪ねて、23日神戸入港の箱根丸で船路をようよう来朝した。

 ・・・はるばる故国から愛児二人を迎える歓びのアルサイドさんのお宅では、朝からオーマン国王への真っ赤な国旗と日章旗を掲げて・・・国王と王弟を迎え、ここで初めて元国王と国際結婚をして玉の輿乗った大山清子夫人(21)と晴れて対面を交わし、数年ぶりに故国の想い出話に団欒の一夜を送った。

 なお、元国王・アルサイド氏は、・・・国際情勢から「元国王」の肩書を秘密にしていた・・・(no3776)

 *今日の写真はありません。

 ◇きのうの散歩(10.541歩)

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オーマン国王夫人物語(10) ブサイナ妃誕生

2017-11-07 07:30:36 | 江戸時代、高砂の商業活動

 以下の記事は、昭和11年9月18日付・大阪毎日新聞からの転載です。

     清子さんとの幸せな生活

 

 ・・・観光の旅でふと知り合った日本女性に熱砂そのまま灼つくような情熱を傾けて、日本を永住の地と決め、港都神戸に国際ロマンスを投げたアラビアオマーンの豪族千万長者タイム―ル・アルサイドは、愛人の元神戸キャピトル・ホールのダンサー大山清子さんに〝家財をまとめて秋にはきっと帰ってくる″と誓った通り、17日朝、神戸入港のドイツ船で再び来朝した。

 ・・・旅のつれづれに清子さんと踏んだステップが、そのまま愛のステップとなって二人は固く結ばれ・・・

 明石で日本式に三々九度の結婚式を挙げ、家財の整理に帰国したもので・・・17日朝清子さんは、母親や親せきの人々ともにで迎え、愛の須として用意された葺合区中尾町の坂の上の真新しい、しょうしゃな洋館に入った・・・・

 

     ブサイナ妃の誕生

 二人はふかく愛しあって幸せそうな夫婦でした。

 家にはオマーン人の料理人や下男がいて、清子さんはいっさい家事で手を汚すこともなくなり、高価な宝石やドレスを身に着け。王と二人で食事に出かけたり、ダンスを踊ったり、まさにシンデレラの生活でした。

 そして、昭和12年10月ブサイナ姫が生まれました。

 なお、「ブサイナ」はアラビア語で「美しい」という意味を持つ一般的な女性名です。(no3775

 *写真:タイム―ルオマーン元国王とブサイナ姫(昭和15年‐195010月撮影)ブサイナ姫の母・清子さの死去後に撮影したもの。

 ◇きのう(11/6)の散歩(10.338歩)

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オーマン国王夫人物語(9) 清子さん、タイム―ル元国王と結婚

2017-11-06 08:59:39 | 江戸時代、高砂の商業活動

   

    タイム―ルは、清子さんにプロポーズ

 清子さんは、稲美町向山の農家に生まれました。

 満2歳の時でした。

 お父さんが急死し、その後母親・しげのさんは清子さんを連れて、神戸に住む大工の大山勘治さんに嫁ぎました。

 勘治さんは、まじめな人でした。

 でも、家系は苦しくて、年頃になった清子さんは、神戸市内のダンスホールへダンサーとして働きに出るようになりました。

 そして、タイム―ルは彼女を見そめ、プロポーズをするまでになりました。

 この段階で、タイム―ルは、元オマーンの国王であるということを清子さんに伝えていません。

 周囲もそのことを知らなかったようです。

 当時は、国際結婚も少ない時代でした。それに19歳と42歳という歳の差があり、両親は、はじめタイム―ルとの結婚に反対していました。

 が、タイム―ルの熱心さに押され、二人の結婚を認めました。

     清子さんとタイ―ムール、明石で挙式

 タイム―ルは、昭和11年日本での永住を決意し、55日に明石で純日本式で挙式を行いました。

 タイム―ル42才。清子さんは19才でした。

 その後、家財整理のためいったん帰国し、9月再び来日しました。

 昭和11918日付けの大阪毎日新聞は「アラビヤの豪族愛人の懐へ帰る みなと神戸娘朗らか‐契りは固し」という見出しで大きく報じています。

 次回の「オマーン国王夫人物語」ではこの大阪毎日新聞の記事を紹介することにします。

 この段階でも、清子さんおよび家族、新聞記者たちにタイム―ルが元オマーンの国王であったことは知らされていませんでした。

 これは、当時の国際情勢にあったようです。オマーンは、イギリスと同盟関係にあり、日本はイギリスと敵対していたことにあったようです。(no3774

 *写真:清子さん(結婚式当日の写真)とタイムール元国王

 ◇きのう(11/5)の散歩(11.696歩)

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オマーン国王夫人物語(8) 神戸で運命的な出会い

2017-11-05 08:12:41 | 江戸時代、高砂の商業活動

       タイム―ル、神戸へ立ち寄る

 退位したタイム―ルは、幾度となく世界漫遊の旅に出かけています。

 タイム―ルは、昭和10年(1935)の船旅の途中、神戸に寄りました。

 そのいきさつについて朝日新聞社の記者・下村満子さんは、神戸新聞を引用されています。

 

 ・・・15前、友人が日本から来て、私の心を魅惑せずにはおかないようなみやげ話をしてくれてからというものは、私はものすごい日本熱にうなされてきた。

 しかし昨年5月、ついにこの少年らしい憧憬が満足されたのである。

 が、今年もまた、矢も楯も堪えられなくなりやってきた。

 日本の中で神戸が一番気に入った。・・・

 

 この神戸新聞の「15年前、友人が日本からきて・・・」の部分に注目してください。

 下村さんは、この日本の友人こそ志賀重昻(しがしげたか)であろうとされていますが、これは間違いのないと思われます。

    神戸での運命的な出会い

 そして、タイム―ルの日本での優雅な暮らしぶりは、たいそう有名な話になっていたそうです。

 タイム―ルは、ダンスが大好きでした。、

 当時神戸の生田区にあった「キャピトル・ダンスホール」に毎晩のように通いました。

 お金のつかぃぶりも派手で、日本人の1ヵ月のサラリーを一晩で使っていたほどでした。

 そこで、稲美町出身のダンサーの清子さんを知ることになります。(no3773

 *写真:清子(後のタイム―ルの夫人・結婚式当日の写真)

 ◇きのう(11/4)の散歩(15.899歩)

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高砂市を歩く(175) 県重文の「旧入家」、4・5日一公開

2017-11-04 18:07:13 |  ・高砂市曽根・北浜町


 

 

 

 今日と明日、旧入江家が一般公開されています。

   行ってきました。なお、図は現地で頂いた旧入江家の見取り図で、写真は、新聞と異なり、現地で撮影したものです。

   県重文の「旧入家」、4・5日一公開

 兵庫県指定重要文化財の「旧入江家住宅」(高砂市曽根町)が4、5日、一般公開される。公開は年1回で、今年は「かほうのびょうぶ展」と題し、地元出身の日本画家梅谷華邦の屏風など計約10点を展示する。

 塩田経営で栄えた入江家が住んでいた同住宅は、江戸時代後期の建物で、主屋は1785年に建築された。2001年に入江家が土地と建物を市に寄贈し、市教委が7年前から毎年公開している。

 今回が初公開となる梅谷の屏風2点は、親族が今年7月に市に寄贈した。コスモスとあでやかなクジャクがモチーフの作品と、初夏に赤く色づいた桜の葉とスズメを描いた作品。ほかに入江家で使われていた屏風や茶わんなども展示される。

 無料。午前10時~午後4時。曽根天満宮の駐車場が利用できる。旧入江家住宅TEL079・447・0224(会期中のみ)(小尾絵生)(no3772)

 *写真:味わい深い展示される旧入江家(住宅)

 *図:入江家配置図

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オマーン国王夫人物語(7) 国王(タイム―ル)の退位

2017-11-04 07:16:02 | 江戸時代、高砂の商業活動

      劇的なタイム―ルとの出会い

 国王・タイム―ルと志賀の出会いは劇的でした。特に、志賀はタイム―ルに強烈な印象を与えたようです。

 志賀は、大正13年(1924)7月に帰国し、『知られざる国々』を出版し、オマーンについて紹介しています。

 志賀は、その2年後の昭和2年(1927)に64歳で死去しました。

 この志賀とタイム―ル国王との出会いが、後に別の形で物語をつくっていくことになります。

   国王(タイム―ル)の退位

 オマーンでは、各地で反乱が続き、国は安定しませんでした。

 イギリスがオマーンを保護国としていました。そのため、イギリスが何とか国の不安さを軍事的に抑えている状態でした。

 しかし、広がる内戦により戦費、それによる経済の停滞によって財政は、つねに火の車でした。

 これらの窮状から逃れるために、ますます軍事的にも、経済的にもイギリスにとの結びつきをますます強めてゆきます。

 オマーンは形式的な独立国でしたが、実質的にはイギリスの支配下でした。

 タイム―ルは何とかオマーンの独立を考ました。

 フランスなどから武器を購入したり、オスマントルコに経済的援助を求めたりすることを試みましたが、すべてむなしく失敗に帰してしまいました。

 挫折したタイム―ルは、次第に政治への熱意を失っていきます。

 1918年、タイム―ルは病気治療を理由にしてインドへ脱出しました。

 この時は、イギリスの説得で帰国しています。

 が、その後もインドへ行き来する生活が続きました。

 タイム―ルは、インドでもイギリスの監視下におかれていました。

 19311117日付けで、イギリスの湾岸駐在代表に手紙を送りました。

 「・・・私はオマーンへ帰りません。・・・個人的な手当ての減額は受諾します・・・オマーン政府に私の退位を伝えてください。本日をもって統治権から手を引き、私の息子であるサイードを後継者の王(スルタン)と致します・・・」

 サイードからも退位の翻意を促しましたが成功しませんでした。

 19321月イギリスの承認を得て退位し、翌月2月サイードが王位(スルタン)に即位しました。(no3771

 *写真:タイム―ル元国王(在位当時)

 ◇きのう(11/3)の散歩(11.075歩)

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オーマン国王夫人物語(6) 日本とオマーン交渉史(2)、志賀重昻・国王との出会い

2017-11-03 06:47:54 | 江戸時代、高砂の商業活動

    日本とオマーン交渉史(2) 

       志賀重昻、オマーンへ入る

 志賀重昻(しがしげたか)は、大正13(1924) 228 日、インド、イラン経由で日本人で初めてオマーンに入りました。

 首都マスカットは、ギラギラとしタ太陽の直下にありました。

 マスカットを訪れる人は、誰もが焼けつくような暑さと、人の入国を拒むようなあの峩々たる岩山に圧倒されるといいます。

   国王(タイム―ル)との出会い

 前号で国王と志賀の出会いを少し紹介しましたが、彼の著書『知られざる国々』から国王との話し合いに至る経緯を付け加えておきます。

 

 ・・・志賀は、ダメとは思いながら、王様に遭うために王宮に出かけました。

 志賀は、衛兵に名刺を差し出しました。

 しばらくして、地位のありそうな人が現れました。後でわかったのですが、その人は、市内の有名な商人でした。

 彼に、片言の英語で、「私は日本人で、せっかくオマーンに来たので一度国王殿下にお会いしたい・・・」と告げました。

 2・3分が経ちました。

 彼は、こういうのでした。

 「国王に、志賀の訪問を告げましたが、喜んで会う・・・」というのです。

 さすがの志賀も話の成り行きに驚きました。

 王宮に案内されました。奥まったところに普通のアラビア人よりは色の白い、髭を蓄えた人物が純白の絹布をかぶり、素足のまま悠然と西洋婦人のように座っておられたのです。

 『ヒズ・マジェスティー』と紹介されました。

 まさに、オマーン国王(タイム―ル王)が彼の前におられるのです。

 私は敬礼すると、王は微笑むように、手招きしてソファーに坐せよ、といわれたので座りました。

 王は、『(遠い日本から)よくここまで来てくれました・・・』と志賀をねぎらうのでした。

 これが、オマーン人(国王)と日本人の最初の出会いの風景でした。(no3770

 *写真:オマーンの首都・マスカットの旧市街地と背後の山

 ◇きのう(11/2)の散歩(12.500歩 )

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オマーン国王夫人物語(5)  日本とオマーン交渉史(1) 志賀重昻

2017-11-02 08:00:27 | 江戸時代、高砂の商業活動

    日本とオマーン交渉史(1) 志賀重昻

 唐突ですが、地理学者の志賀重昻(しげたか・写真)が登場します。

 志賀重昻は、日本とオマーンの交渉史では特記すべき人物です。

 少し、彼について紹介しましょう。

 志賀重昻は、文化三年(1863)に現在の愛知県岡崎市で藩士の長男として生まれました。

 後に上京し東京帝国大学に入学するのですが、明治13年(1880)に札幌農学校転じ卒業しています。

 その後、政治運動に身を投じ、衆議院議員にも当選しましたが,明治37年落選し、政界から引退しました。

 志賀は、札幌農学校時代から登山と旅行を愛好し、各地を旅行しました。

 調査をふまえた叙述の『日本風景論』を著し、多くの読者をひきつけました。

 また、明治43年(1910)、ヨーロッパ・アジア・南北アジア・アフリカに旅立ちました。

 志賀は、大正12年(192312月に第3回目の世界旅行に出発し、オマーンを訪れたのはこの時でした。

 志賀は、この時幸運にも国王タイムールに出会い、直接話をする機会を得ました。

 この時の会談が、その後意外な進展を見せます。

 意外な進展の内容は次回です。

      石油の重要性を説く

 志賀は、『知られざる国々』を著し、次のように書いています。

 「・・・志ある士は一人でも多く、一日にても早く回教系諸国・・・インド以西のアジア諸国、アフリカ北岸諸国・・・を視察し、もって来るべき世界的関ヶ原における日本の去就進退につき十二分の予備知識を博されんことを望む・・・」

 すなわち、日本は、きたるべき世界戦争に備え、石油の生産国との交渉の重要性を説いています。まさに、第二次世界大戦を予期したかのような記述です。

  〈蛇足〉

 私の部屋に黄色くなった『知られざる国々(滋賀重昻著)』(日本評論社)があります。

 昭和18年に発行された本で、定価二円八銭の本です。

 先日、3000円で購入した本です。(no3769

 *写真:志賀重昻(「ウィキぺディア)より)

◇きのう(11/1)の散歩(11.147歩)

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