ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんの語る郷土の歴史(28) 古墳時代(4)・御陵(1)

2017-11-24 11:23:57 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

  

      日岡山山頂の古墳:御陵(1)

 ・・・大和(奈良)豪族にとって播磨地方は、畿外への防衛の最前線でした。

 加古川地方は4世紀ごろには奈良の勢力圏に入っており、大和地方にとっても、加古川地方は重要な地域でした。

 そのため、大和と東播磨地方の間には、さまざまな交流があったと想像されます。

 このような状況が。日岡山のヤマトタケル伝承を誕生させたと考えられます。

 伝承によれば、ヤマトタケルは、加古川市に生まれ、母は、播磨の豪族の娘:稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)です。

 *『播磨風土記』では、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)は、印南別嬢(いなびのわきいらつめ)として登場します。

   母は、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)

   最近は、『古事記』・『日本書紀』のクライマックスに登場する英雄ヤマトタケルといっても、 ピンとこない人(世代)が多くなりました。

 『古代史の謎に挑む(一)』(NHK出版)は、ヤマトタケルを、次のように説明しています。

 ・・・その昔、日本に一人の英雄が登場した。それはいまからおよそ1600年前、日本の歴史の中でもっとも多くの謎につつまれている四世紀ここと言われている。

 その英雄こそ大和朝廷の日本統一に大きな役割をはたしたと伝えられているヤマトタケルである。・・・

 彼は、播磨、現在の兵庫県加古川市付近に生まれたと伝えられている。第十二代 景行天皇(けいこうてんのう)を父として、母はこの地方出身の稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと)であった。

 ヤマトタケルは双子の弟であり、幼名を小碓命(おうすのみこと)と名のった・・・・

 

 もちろん、ヤマトタケルの物語は事実を語ったものではありません。しかし伝承であれ、加古川から日本統一にかかわった英雄が登場しているのは愉快なことです。(no3791)

 *写真:稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)の御陵

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(27) 古墳時代(3)・遺跡溝口遺跡は、日岡豪族の集落か

2017-11-24 07:06:32 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

   日岡山古墳群

 日岡山には図のように多くの古墳があります。

 現在残っている古墳は図のように、①勅使塚、南大塚、西大塚、北大塚、狐塚、西車塚です。

 これらの古墳群は4世紀にさかのぼり、被葬者は日岡山の南に広がる平野を約200年にわたって支配していたと考えられます。

 平野部には、南西約2キロメートルの溝口遺跡をはじめ、北在家・粟津などの弥生遺跡があります。そのあたりは、早くから開けていたようです。

 中でも、「溝口遺跡」は、弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡で、古墳時代の住居跡も発見されています。

 この辺りは、加古川の氾濫原の中にあって比較的安定し、しかも水利に恵まれた場所でした。

   遺跡溝口遺跡は、 

       日岡豪族の生活した集落か

 『加古川市史(第1巻)』に、次のような面白い記述があります。

 ・・・日岡山古墳群の現存する5基(前述の4基と稲日大郎姫の御陵)の前方後円墳は、すべて前方部を南に向けている。前方後円墳については、必ずしも定説があるわけではないが、前方部を平野側に向けている場合が多い。

 それはまた、被葬者が支配した土地とみなしてよさそうである。したがって、日岡山古墳群の方向と平野部の遺跡との関係は大変興味深い・・・

 つまり、溝口遺跡は、日岡豪族が生前生活していた集落であったと指摘しています。

 「溝口弥生遺跡」は、複合遺跡なので「溝口遺跡」が正しい呼称でしょう。(no3790)

 *地図:『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)より

 ◇きのう(11/23)の散歩(10.984歩)

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする