ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(175) 県重文の「旧入家」、4・5日一公開

2017-11-04 18:07:13 |  ・高砂市曽根・北浜町


 

 

 

 今日と明日、旧入江家が一般公開されています。

   行ってきました。なお、図は現地で頂いた旧入江家の見取り図で、写真は、新聞と異なり、現地で撮影したものです。

   県重文の「旧入家」、4・5日一公開

 兵庫県指定重要文化財の「旧入江家住宅」(高砂市曽根町)が4、5日、一般公開される。公開は年1回で、今年は「かほうのびょうぶ展」と題し、地元出身の日本画家梅谷華邦の屏風など計約10点を展示する。

 塩田経営で栄えた入江家が住んでいた同住宅は、江戸時代後期の建物で、主屋は1785年に建築された。2001年に入江家が土地と建物を市に寄贈し、市教委が7年前から毎年公開している。

 今回が初公開となる梅谷の屏風2点は、親族が今年7月に市に寄贈した。コスモスとあでやかなクジャクがモチーフの作品と、初夏に赤く色づいた桜の葉とスズメを描いた作品。ほかに入江家で使われていた屏風や茶わんなども展示される。

 無料。午前10時~午後4時。曽根天満宮の駐車場が利用できる。旧入江家住宅TEL079・447・0224(会期中のみ)(小尾絵生)(no3772)

 *写真:味わい深い展示される旧入江家(住宅)

 *図:入江家配置図

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オマーン国王夫人物語(7) 国王(タイム―ル)の退位

2017-11-04 07:16:02 | 江戸時代、高砂の商業活動

      劇的なタイム―ルとの出会い

 国王・タイム―ルと志賀の出会いは劇的でした。特に、志賀はタイム―ルに強烈な印象を与えたようです。

 志賀は、大正13年(1924)7月に帰国し、『知られざる国々』を出版し、オマーンについて紹介しています。

 志賀は、その2年後の昭和2年(1927)に64歳で死去しました。

 この志賀とタイム―ル国王との出会いが、後に別の形で物語をつくっていくことになります。

   国王(タイム―ル)の退位

 オマーンでは、各地で反乱が続き、国は安定しませんでした。

 イギリスがオマーンを保護国としていました。そのため、イギリスが何とか国の不安さを軍事的に抑えている状態でした。

 しかし、広がる内戦により戦費、それによる経済の停滞によって財政は、つねに火の車でした。

 これらの窮状から逃れるために、ますます軍事的にも、経済的にもイギリスにとの結びつきをますます強めてゆきます。

 オマーンは形式的な独立国でしたが、実質的にはイギリスの支配下でした。

 タイム―ルは何とかオマーンの独立を考ました。

 フランスなどから武器を購入したり、オスマントルコに経済的援助を求めたりすることを試みましたが、すべてむなしく失敗に帰してしまいました。

 挫折したタイム―ルは、次第に政治への熱意を失っていきます。

 1918年、タイム―ルは病気治療を理由にしてインドへ脱出しました。

 この時は、イギリスの説得で帰国しています。

 が、その後もインドへ行き来する生活が続きました。

 タイム―ルは、インドでもイギリスの監視下におかれていました。

 19311117日付けで、イギリスの湾岸駐在代表に手紙を送りました。

 「・・・私はオマーンへ帰りません。・・・個人的な手当ての減額は受諾します・・・オマーン政府に私の退位を伝えてください。本日をもって統治権から手を引き、私の息子であるサイードを後継者の王(スルタン)と致します・・・」

 サイードからも退位の翻意を促しましたが成功しませんでした。

 19321月イギリスの承認を得て退位し、翌月2月サイードが王位(スルタン)に即位しました。(no3771

 *写真:タイム―ル元国王(在位当時)

 ◇きのう(11/3)の散歩(11.075歩)

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