ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(33) 古墳時代(9)、行者塚古墳(3)・加羅(任那)への援軍

2017-11-29 08:29:20 | お爺さんが語る郷土の歴史

     加羅(任那)への援軍

 古代史の専門家は、行者塚出土の大量の埴輪(写真は一部)は、5世紀初期の古墳であると結論づけています。

 ここからは、素人(私)の無責任な想像をまじえますので、そのつもりでお読みください。

 行者塚古墳の出土品の中には朝鮮半島南部からの遺物が多いのです。

 これは、中央(奈良地方)の豪族が、朝鮮南部から得た品物を、地方の豪族に与えたものとも考えられますが、それにしては行者塚古墳には多すぎるのです。

 行者塚古墳の主は、中央の豪族にとって、それほど特別な豪族であったとも思えません。

 5世紀の朝鮮半島の情勢は、百済・高句麗・新羅・加羅(から)、それに中国が複雑に絡み合っています。

 つまり、お互いに相手の領土を狙っていました。

 行者塚古墳から出土品から考えて、行者塚の主は加羅(任那)との交流が深いようです。

 加羅(任那)は、これらの国の中でもっとも弱小の国(地方)でした。

 とするなら、当然加羅は、他国と同盟を結んだり、援軍を求めたりしなければ国を守ることはできません。

 西日本や北陸の海岸にある古墳にも、行者塚と同じく、加羅地方の遺物を多く持つ古墳があります。

 これらの古墳の主は、加羅へ直接援軍を送ったのではないか。あるいは、食料援助とも考えられるのです。

 そして、交流(貿易)の他に、「援助の見返りとして、加羅からたくさんの宝物を得たのではないか」と考えるのです。

 いかがでしょうか。(no3796)

 *写真:東北造り出し出土の家形埴輪(『行者塚古墳)加古川市史編さん室)より

  ◇きのう(11/28)の散歩(10.972歩)

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