ブサイナ姫にあう
かたわらにいた、ターリック殿下は席をすすめてくださいました。
ターリック殿下は、通訳をしてくださいました。
「妹(ブサイナ姫)は、アラビア語以外話せないのです。
今日は、私が通訳いたしましょう。本当ならば女性の通訳を方でもお願いして、女だけで和気あいあいでやっていただく方がよいのですが、何しろブサイナの出生に関する話には他人が介入してほしくないものですから・・・。おわかりでしょう?
これは、本当は内緒にして話にしておきたいのです。
前国王のサイードは、ブサイナ姫を完全なオマーン人として育てることにありました。
日本を離れた以上母親の国と全く断ち切ってしまおうという方針でした。
私(ターリック殿下)は、日本の親戚の方と連絡をつけてやりたいと、手を尽くしたのですが、私自身、1962年、兄の政治に政治的に反対してオマーンをさり、以後はブサイナ姫とも会うことができなくなってしまいました。
ブサイナ姫の形見
三人での話の途中、ブサイナ姫は席を立って何かを抱えて帰ってこられました。
「これは母が亡くなった時、一つの箱の中にまとめて入っていたものだそうです。
日本語ですので、何が書かれているかわかりませんが、母の形見として大切に持っておりました。今まで誰にもお見せしたことがないのですが、何が書いて有る可読んでいただけないでしょうか」
なんと、それは、母の清子さんがタイム―ル王との愛の生活を2年間欠かさず毎日したため日記でした。
日記は、昭和13年1月1日から14年6月までほとんど欠貸さずつけられていました。
14年春ごろ、病気が悪化してからは筆も乱れ、清子さんの心痛が胸にせまります。最後に日記から5ヵ月後に清子さんはなくなりました。
最後の日記(昭和14年6月11日)
・・・私はどうしてこのような不幸な体になったのかと思い、自然に泣けてくる・・・神様ァ。
神様、病気をするまでの私の朗らかな心はどこ。
本当の自分の毎日の気持ちは、自殺をしたいと思う位だ。
・・・ブサイナのために生きたい・・・道行く人々はみな楽しそうだ。
そうして、私だけがこう苦しい。病魔に負けてたまるか。勝たなければならない。
かわいいブサイナのために。神様、何卒お見方下さい。我が子でありながら、そばへも寄っていけない。かわいいと思えばこそ、我が子の手にもさわれない。
この病気さえなければ、と幾へん考えることか・・・(no3779)
*写真:ブサイナ姫とターリック前首相(『アラビアの王様と王妃たち』より)
◇11/11の散歩(13.698歩)