ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(29) 古墳時代(5)、御陵(2)・ヤマトタケルの物語が語ること

2017-11-25 08:49:10 | お爺さんが語る郷土の歴史

    ヤマトタケルの物語が語ること

 それほどの人物であるなら、ほとんど時を同じくして書かれた『播磨風土記』に登場してもよさそうなものです。

 不思議なことに『播磨風土記』のどこにもヤマトタケルの姿はありません。

 あるのはヤマトタケルの母と父・景行の愛の物語ばかりです。

 これは何を語るのでしょうか。

 『風土記』は、地元に伝わることをまとめたものです。

 「ヤマトタケルの話」は、『風土記』がつくられた時代、地元ではなかったのではないか」と想像してしまいます。「ないものは書けない・・」と言うわけです。

 せっかく、ギリシャ神話に登場するような物語が、加古川市で誕生したと言うことは痛快なことであるが、どうも怪しい。

 こんなことを書くのは、地元の者としては少し気がひけます。

      つむじ風」の意味は?

 稲日大郎姫の話を続けましょう。

 彼女は他に比べる者もない、それはそれは、美しい女性に成長しました。

 その噂は、時の天皇(景行天皇)にも聞こえ、やがて結婚して幸せな生活を始めまし。

 幸せな生活は長く続きませんでした。やがて、稲日大郎姫は亡くなり、日岡山に葬られることになったのです。

 ところが、その時事件がおきました。

 彼女の遺骸が日岡山に埋葬されために加古川を渡る時でした。

 突如、つむじ風がおこり、遺骸は、たちまちのうちに川にのみこまれてしまいました。

 後には、「櫛」と「ひれ」(天女等が背からまとっている布)がみつかっただけでした。

 そのため。その櫛と「ひれ」が、ご陵に葬られました。そのため、ご陵は「ひれ墓」とも呼ばれています。

 こんな話が『播磨風土記』にあります。

 「つむじ風の正体」は、きっと(政)敵だったのでしょう。ヤマトの勢力の進出を望まない一部の勢力の抵抗であったのかもしれません。(no3792)

 *絵画:ヤマトタケル像(青木繁筆・東京国立博物館蔵)

 ◇きのう(11/24)の散歩(10.469歩)

コメント
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