ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(51):一ツ橋公陣屋

2011-07-18 08:05:59 |  ・加古川市東志方

「志方町を歩く(4950)」の復習をしておきまます。

  東志方9ヵ村は、小田原藩領に

011宝永4年(17071123日(現暦:1216日)、「宝永の噴火」と知られる富士山が、空前の大爆発をおこし、南関東地方に大災害をもたらしました。

ことに、富士山は、膨大な火山灰を噴出させ、風下の小田原領を直撃しました。

当時、小田原藩の藩主・大久保忠増は幕府の老中でした。

小田原藩の領土の過半を一時、幕府に返上にしてしまったのです。

そして、小田原藩は、それに代わる土地を宝永5年に、復興がなるまでという期限つきでしたが、新たな領地を得ました。

その一つが、東志方の9ヵ村(大沢・行常・細工所・野尻新・岡・柏尾・吉弘・高畑・大宗の各村)でした。

この状態が約40年、延享4年(1747)まで続きました。

    一ツ橋領(東志方9ヶ村)

その後、東志方のこれらの村は、新たな支配領に組み込まれることになります。

八代将軍・吉宗は、家康によって創設された御三家にならって御三卿(ごさんきょう)を創設しました。

東志方の9ヶ村は、相模小田原藩の領土でしたが、延享4年(1747)から今度は、そっくり御三卿の一つの「一ツ橋領」に組み込まれたのです。

つまり、東志方9ヶ村は天領となりました。

そして、東志方の9ヶ村は、一ツ橋領として江戸時代の終わりまで続きました。

     一ツ橋公陣屋跡

印南郡では、東志方の9ヶ村の外に曽根村・今市村・中嶋村(以上は現、高砂市)が一ツ橋領となり、陣屋(役所)は、細工所に置かれました。

しかし、現在陣屋の遺構は、何も残っていませんし、詳細もわかりません。

ただ、細工所公会堂の庭に「細工所陣屋跡」の碑(写真)が、陣屋があったことを物語っているばかりです。

地元の宮永半治さん(故人)は、『志方郷(2)』で「一橋公細工所陣屋」について寄稿されていますので、次号で掲載させていただきます。

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志方町を歩く(50):天領(一ッ橋領)

2011-07-17 07:04:59 |  ・加古川市東志方

一ツ橋領(東志方9ヶ村)

539527d5_2  八代将軍の吉宗は、家康によって創設された御三家にならって田安家(吉宗の二男)・清水家(将軍家重の二男)・一ツ橋家(吉宗の四男)をもって御三卿(ごさんきょう)を創設しました。

江戸時代初期におかれた御三家が、中期になると将軍家との関係が次第に疎遠になって来たためでした。

御三卿には、それぞれ領地があたえられた。

吉宗の四男・宗尹(むねただ)の一橋家にあたえられた土地は『加古川市史(第二巻)』(p230)に紹介されています。

10万石でした。

「志方町を歩く(49)」で紹介した東志方の9ヶ村(大沢・行常・細工所・野尻新・岡・柏尾・吉弘・高畑・大宗の各村)は、相模小田原藩の領土でしたが、延享4年(1747)から今度は、そっくり一ツ橋領に組み込まれたのです。

つまり、地図の東志方9ヶ村は天領となりました。

(地図は「志方を歩く(49)」と同じです)

その後、東志方の9ヶ村の所領関係の変化はなく、一ツ橋領として江戸時代の終わりまで続いています。

11代将軍・家斉(いえなり)、15代将軍・慶喜(よしのぶ)は、一ツ橋家出身の将軍でした。

*『加古川市史(第二巻)』参照

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志方町を歩く(49):富士山、宝永の噴火と志方②

2011-07-15 21:28:52 |  ・加古川市東志方

539527d5_3江戸時代、東志方9ヶ村(大沢・大宗・岡・細工所・高畑・野尻新・行常・吉広・柏尾の各村)は、姫路領・幕府領・姫路領・相模小田原領・一ツ橋領と支配関係はかわりました。

*上記の村のうち吉村と柏村は、明治9年合併した現在の(東志方町)広尾です。

小田原藩壊滅

宝永4年(17071123日(現暦:1216日)、「宝永の噴火」と知られる富士山が、空前の大爆発をおこしその惨状の一部は前回紹介したとおりです。

元禄16年(1703)にも、房総近海を震源とするマグニチュード8.08.2といわれる巨大地震が、南関東地方に大災害をもたらしています。

ことに小田原の被害は甚大で、町は火災でほとんど全滅。それに小田原城は、天守閣をはじめ多くの建物が全壊しました。

その上に、宝永の大噴火がその4年後におこったのです。

富士山は、膨大な火山灰を噴出させ、風下の小田原領を直撃しました。

小田原領は、火山灰にのみこまれました。

たちまちに食料が不足し、飢餓が襲いました。火山灰は川をせき止め、いたるところで洪水を引きおこしました。

ほとんどが「亡所」と言うまでも、廃墟同然となり、当然、年貢は集まりません。

復興の方法が見つかりません。

    東志方9ヶ村は小田原藩領に

当時、小田原藩の藩主・大久保忠増は幕府の老中でした。非常手段をとりました。

なんと、小田原藩の領土の過半を一時、幕府に返上にしてしまったのです。

幕藩体制の成立以来こんな例はほかにありません。

そして、小田原藩は、それに代わる土地を宝永5年に、復興がなるまでという期限つきであったのでが、新たな領地を得たのです。

地図をご覧ください。東志方の9ヵ村もその一つでした。

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志方町を歩く(48):富士山、宝永の噴火と志方①

2011-07-15 10:30:45 |  ・加古川市東志方

今日の「志方町を歩く」は、「宝永大地震」・「宝永の大噴火(富士山)」の話で、志方町と関係なさそうな話題のようですが、この事件が志方がと関係してきます。

 次号では、その関係をみますので、今回はそのための予習(予備知識)です。   

宝永大地震

宝永四年(1707)、1028日(旧104日)東海~南海巨大地震である宝永地震(M8.4)が発生しました。

宝永地震では、地震の被害だけでなく、伊豆半島から九州にかけての海岸を大津波が襲い、津波による家屋の倒壊は2万戸、死者は少なくとも2万人に達したといわれています。

   

富士山の大噴火(宝永4年・1707

Ukiyoeその宝永地震の49日後の1216日(旧1123日)の朝10時ごろ、富士山の大噴火が始まりました。

その日の朝噴火が始まると、山麓の村々には焼け石が絶え間なく降り注ぎ、家も畑もたちまち、その下に埋まっていきました。

江戸でも、その後10日あまり灰がふり、時には栗粒ほどの黒い砂が降り、家々の屋根に落ちる音が大雨のようだったと言います。

特に、噴火の大きな被害を直接受けたのは小田原藩の各村々でした。

噴火が終息し彼らが帰って見たものは、一面に灰や焼砂に覆われた絶望的な村の風景でした。

人々は、すべての収穫を奪われてしまいました。

たちまち飢饉が襲いました。餓死するものも相次ぎました。

小田原藩は、米一万俵を各村々に分配したのですが、その程度では飢饉をとうてい救えません。

その上に、降り積もった焼け砂や灰を除去するには多大の労力と経費を必要としました。

小田原藩領民の自力だけでは不可能でした。

この窮状に対して、幕府も救済の手を差し伸べざるを得なくなりました。

翌年、被害の大きかった村々を一時幕府の直轄領とすることにしました。

また、幕府は被災地域救済のために、全国の公領・私領を問わず、高100石につき2両の義捐金を課しました。

こうして、諸国から集まった義捐金は、40万両にも達しました。

が、幕府が実際に被災地の救済に使ったのは16万両にすぎず、残りの24万両は江戸城の修理に流用してしまいました。

このような体たらくですから、復旧もままなりませんでした。

悪いことは重なるものです。

火山灰で川底が埋っているところへ87日(旧621日)午後から翌日にかけ、激しい豪雨が襲い、土石流や土砂崩れを引き起こしました。

そのため、被害は一層、悲惨なものとなりました。

*絵:浮世絵の宝永火口(歌川広重)

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志方町を歩く(47):志方町から志方村へ

2011-07-14 08:05:18 |  ・加古川市東志方

「湯ノ山街道をゆく」で、さかんに「志方町(しかたまち)」をつかいました。

 ここで「しかたまちしかたちょう」について整理しておきます。

志方町から志方村へ

Fc4006a4 明治2241日、志方町(しかたまち)・西中村・西飯坂村・投松村・上富木村が合併して志方村が誕生しました。

「おや!」と思われた方もおられるのではないでしょうか。

「志方町が合併して志方村になるなんて・・」と。

志方の位置地図で確かめてください。

ここを姫路から三木・有馬を通り、京都・大坂にぬける「湯ノ山街道」が通っていました。

それに、南北の北条へ抜ける道もありました。

つまり、志方は交通の要衝であり、戦国時代・櫛橋氏は、ここに志方城を築いたのです。

かつて、志方は商業・政治の一大中心地でした。賑わいがありました。

そのため、ここは「村」ではなく、志方町(しかたまち)と呼ばれました。

加古川市では、外に寺家町の例があります。

江戸時代・志方には、志方東町と志方西町があり、明治111月に合併して志方町(しかたまち)となっています。

くどくなりますが、「しかたまち」と読むことを、もう一度確認しておきます。

つまり、明治2241日地図にある村々が合併して志方村が誕生しました。以降、志方村の中に、大字・志方町(しかたまち)があるという妙な形で今日にいたっています。

そして、志方村および西志方村・東志方村の三村は、昭和2981日に合併して志方町(しかたちょう)に、昭和5421日に加古川市と合併し、加古川市志方町となり今日にいたっています。

*『兵庫県市町村合併史』(兵庫県総務部地方課)・『かこがわ万華鏡』(岡田功)・『志方町誌』(志方町)参照

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志方町を歩く(46):投松の石棺の身

2011-07-13 07:28:27 |  ・加古川市東志方

超大型石棺

 189_2 平荘湖の湖底の中ほどに、かつて稚児ヶ窟古墳(ちごがくつこふん)と呼ばれた池尻16号墳がありました。

 その外にも多くの古墳が、平荘湖の建設に伴い水没しました。

 稚児ヶ窟古墳の石棺は、市内最大の石棺で、蓋と身がそろうめずらしい例です。

 身(写真)は、志方町投松(ねじまつ)の公会堂の庭に置かれています。

 長さ228㌢、幅142㌢、高さ95㌢の超大型の石棺です。

 石棺の前に立つと、その大きさに圧倒されます。

 この石棺に身の部分について、石棺の横に次の加古川市教育委員会の説明があります。

   <石棺の身>

 この石棺の身は、かつて平荘ダムに水没した、稚児ヶ窟古墳にあったものを姫路藩主、榊原式部太夫が泉水に使うため運ぼうとしたが、重くて投松峠に放置したという記録がある。

 昭和11年、県道拡張の時、ここに運んできたと言われています。

    昭和11年・投松へ運ぶ

この石棺について池本寅男氏は『志方郷(第16号)』に、おもしろいエピソードを寄せておられますので紹介します。

「・・・この大きな石棺は、姫路藩城主の榊原式部大輔の所望により、投松峠まで持ってこられてから約280年余り、道端の土の中に埋っていた。

昭和11年の県の拡張工事中に、裏向きの状態で発見された。

初めは、何か宝物でも入っているかも知れないと、みんな緊張したが、掘り進むにつれ、何もないことがわかり、がっかりして一度に力が抜けてしまったとのことである。

小畑町内会(加古川市平荘町)とも話し合い、当村(投松)が引き取ることになり、村中総出でコロを並べ、その上を移動させることにした。・・・」 

なお、この蓋は、平荘湖畔の弁天社の広場に置かれていますので見学ください。

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志方町を歩く(45):投松(ねじまつ)

2011-07-12 10:23:46 |  ・加古川市志方全般

190  志方町を東西に貫通した、湯ノ山街道を歩いてみました。でも、再現できませんでした。

 いろいろご存知の方は一報ください。

 このあたりで、次の話題へ移りたいのですが、投松に来ていますので、「投松」の話題を少し取り上げましょう。

投 松

投松は、加古川市内でも最も読方の難しい地名でしょう。

「加古川検定」に出題されるかもしれません。先に、問題をつくっておきます。

問題  次の志方町にある地名「投松」の読み方次のどれでしょうか。

  なげまつ   ねじまつ   とうしょう

答は、「ねじまつ」です。「投松」の呼称について、『志方町誌』は次のように書いています。

 ・・・むかしは、「ねじりまつ」といったが、のち「ねじまつ」になったという。

 この「ねじ松」と言う名は、平荘との村境の街道ばたに、ねじり松の大木があったので、それに因んでつけたものである・・・

村境を示す榜示石(ぼうじいし)を「投げ石」と呼ぶ例がある。「投松」の「投」はこんなところにルーツがあるのかもしれません。

『志方町誌』にあるように、「村境を示す松の大木が、後に盆栽のように捻って育った」と考えるのが自然でしょう。

   もうひとつの投松

ことは簡単ではありません。東志方町大沢に「投松」という字(あざ)がり、こちらは「なげまつ」と読んでいます。

   もとは「捩り松(ねじりまつ)」

 話を志方町の投げ松に話をもどします。

池本寅男氏は『志方郷(第21号)』に、次のような一文を寄せておられます。

一部分をお借りします。

「・・・以前は捩松、捻松村と記されている文献も多くあり、投松と書いた一番古い記録は、寛永六年(1629)である。

投松文字を使うようになった理由がはっきりしない。・・・・

昔の文書は行書・草書が多かったので、書き誤りではなかったかと思う・・・」

池本氏の解釈を読んで「案外、そんなところが真実かもしれない・・」と思えてきました。

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志方町を歩く(44):湯ノ山街道をゆく(21)・投松の湯ノ山街道

2011-07-11 19:04:54 |  ・加古川市志方全般

   投松に残る「湯ノ山街道」

Shikataa_003 志方町(しかたまち)から二子池までの湯ノ山街道は、元の姿はわからなくなっています。

二子池の道標から投松(ねじまつ)までの道も、またまた消えてわかりません。

志方町域を東西に貫いた旧:湯ノ山街道は、まさに幻の街道となりかけています。

さいわい、『志方郷(第7号)』で、磯野道子さんは、投松を通る「湯ノ山街道」について書いておられます。

(一部、文章を変えています)

 ・・・・・

投松(ねじまつ)の中に有馬道(湯ノ山街道)は残っていた。

 飲食店「ジョイフル」の北を通って、新道に並行するような形で、村の中を東へ進み、村を出外れると、左手に山や種鶏場を見ながら、峠下の池・峠上の池を右に見て、投松峠の上まで続いている。

 「この辺りは、道の両側から木々の枝が茂ってきて、長い間、昔の面影が残っていたところです」

 これは近くに住むおばあさんの話である。

・・・・・

     兵の道・湯治客の道

 この道は三木・有馬へ、そして京都へ続いた山陽道(江戸時時代は西国街道と呼ばれる)の裏街道でした。

 「湯ノ山」とは有馬温泉のことです。つまり「湯ノ山街道は、有馬を通り京都に通じる道のことです。

湯ノ山街道は湯治客の道ばかりではなく、南北朝の時代には播磨と西摂津を制した赤松氏がこの道を重要視し、軍用道として整備しました。

その後、三木合戦では、まさに兵の道となりました。

そして、三木合戦を制した豊臣秀吉は有馬温泉を愛し、有馬温泉はますます栄え、それに伴い、往来する湯治客や旅人は多くなりました。

六甲山の北を通って姫路から京都へのこの道を、人々は「湯ノ山街道」と呼ぶようになりました。

 *写真:投松に残る旧・湯ノ山街道(一部)

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志方町を歩く(43):湯ノ山街道をゆく(20)・志方町をゆく

2011-07-10 11:04:02 |  ・加古川市志方全般

湯ノ山街道の散策は、点(想像できる位置)を結びながら、志方町(しかたまち)の「有り馬」とある道標までたどり着きました。

地図で道標の場所を確認ください。

  志方町(しかたまち)をゆく、湯ノ山街道

B16a9eae 道標のある辺りは、かつての志方城のちかくです。

志方町(しかたまち)を貫通する「湯ノ山街道」について、松本光明氏は『志方郷(第20号)』で、次のように説明しておられます。

その一部を少し変えて掲載させていただきます。

「・・・(湯の山街道は)志方中央保育園から下ノ町公会堂の北側を通り、松野食料品店と住田商店との間を出て、旧宝殿道に突き当たり北に折れて赤線のように折れ曲がり東に向かう・・・」

松本氏の説明の「湯ノ山街道」を赤線でなぞったのが、上記の地図です。

それにしても、山陽道と共に姫路から京都へ続く幹道の一つが、こんな狭い道であったことと知る時ちょっとした驚きです。

志方町(しかたまち)を通った湯ノ山街道も、すぐに元の姿を消してしまいます。

次に分かっている地点は、二子池の南西隅の道標のあたりです。

    湯ノ山街道の散策を

天理教会のすぐ南から、「三木有り馬」の道標の場所へ、そして旧宝殿道に突き当たる道を一度歩いてみませんか。

歴史のニオイがしますよ。

「幸圓」のことなどを考えながら歩いてみるのもいいですね・・・・

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志方町を歩く(42):湯ノ山街道をゆく(19)・志方町(しかたまち)の道標

2011-07-09 13:37:35 |  ・加古川市志方全般

001_2 かつて、志方町を東西に貫通した「湯ノ山街道」を探しています。

湯の山街道は、昔日の面影をほとんど残していません。

でも、点として分かっている場所があるので、それをたよりに歩いてみます。

分かっている地点の整理しておきます。

第一の地点は山中の集落のすぐ西の「腹切り地蔵」のところです。

第二は原の大池の東北隅です。

ここから東(志方町・しかたまち)への道は、すっかり変わっていて元の道は、はっきりしません。

でも、第三点は前回紹介した原の道路元標のある場所だろうと思われます。

   志方町(しかたまち)の道標

第四点は、志方町に入り道標(写真)の残っている場所です。

今日は、この標識を見学します。

道標の文字は少し判読しにくくなっていますが次のようです。

  (左面) 左 三木有り馬

  (中央) 右 □□□□

       左 石のほうでんそねの松 

  (右面) 右 法花山

 道標の「左 三木有り馬」のあるのは、左の道は三木・有馬へ通じる道であることを表しています。

つまり、三木・有馬へ通じる「湯ノ山街道」のことです。

(「湯ノ山街道」は、湯山道・湯山街道・有馬道・有馬街道など、いろんな呼び方をされます)

 この道標の辺りは、すでに志方城下町に入っています。

 ですから、少し複雑な道となり、「湯ノ山街道(24)」で紹介した二子池の「ありまみち」の道標の場所へ通じていました。

次回では、志方城下町(しかたまち)を走った「湯ノ山街道」を歩いてみます。

  

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志方町を歩く(41):湯ノ山街道をゆく(18)・原に残る道路元標

2011-07-09 08:15:48 |  ・加古川市志方全般

009道路元標(どうろげんぴょう)は、旧道路法(1919)により各市町村に1個設置することとされ、その位置は知事が定めるものとしていました。

ほとんどは市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されています。

道路の起点・終点を市町村名で指定した場合は、道路元標のある場所を起終点としていました。

大正11年(1922)の内務省令は、道路元標の材質について、石材その他の耐久性のものを使用すること、正面に市町村名を記すことを定めるとともに、寸法なども明示していました。

が、現行の道路法(昭和27年法律180号)では、道路の付属物としているだけで、設置義務、材質、様式などについての定めはありません。

現在、設置義務がなくなったためか、加古川市域では、16ヶ所の道路元標が設置されていましたが、現在7ヶ所の元標が残るだけです。

   西志方村道路元標」

志方町内でも東志方村・志方村にも設置されていましたが、現在確認できるのは、西志方町原に残る元標だけです。

元標には「西志方村道路元標」と刻まれています。

志方村にあった元標は、志方町(しかたまち)松ノ木(小字)にあり、湯ノ山街道と志方道の通る重要な交差点にありました。

*「志方村と志方町(しかたまち)の呼称」については、混乱しますので、後に取り上げます。

現在、志方町域で現存する原の道路元標の場所について、『志方郷(39)』で、磯野道子氏が次のように説明されています。

「・・・志方町原の現在の交差点の西20メートル(原公会堂東隣)の道端にあります。

しかし、ここは、現在の交差点ができるまでの古い道であったと思います。

永室から原を通って小学校へ行く細い道と有馬道(「湯ノ山街道」のこと)との交差点の道端に立っています。

今でも、その細い道はありますが、大正時代には西志方村の中心として重要な交差点であったと思います。

*『志方郷(第39号)』参照

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志方町を歩く(40):湯ノ山街道をゆく(17)・下原

2011-07-08 07:56:23 |  ・加古川市志方全般

014 旧湯ノ山街道を歩いてみようと軽い思いつきで「湯ノ山街道をゆく」を計画しました。

が、肝心の湯ノ山街道のもとの姿は圃場や道路網の整備等で消えて、ほとんど分からなくなっていました。

山中は、山と山に挟まれた街道沿いに沿った集落のため、だいたいは想像がつきます。

山中から原へ出たとたんに街道のもとの姿は分からなくなります。

しかし、志方町(しかたまち)に「ありま道(湯ノ山街道のこと)」の道標があり、湯の山街道が、そこを通っていたことが分かります。

地図で志方町の道標と、原の大池の横の道を結んでみました。

湯の山街道は、原の集落と通っていたことは確かなようです。

そのため、原をあるきながら目についたもの、思いついたことを少し書いておきます。

      印南郡下原村  

それにしても原とは、シンプルな集落名です。

しかし、村名が原に落ち着くまでには、それなりの歴史があったようです。

『印南郡誌』によると、「原は、江戸の初期、印南郡重国村と藤池村そして比室村の一部が合併して印南郡原村とした」とあります。

後に、原新村を分村するのですが、明治9年に再び原新村を合併しています。

   下原村から原村へ

天文元年(1532)の報恩寺(加古川市平荘町)の文書に「薬師堂、鎮守伊和明神、原村有之」とあります。

 ここに見える原村は、現在の加古川市平荘町上原(かみはら)のことです。

 印南郡に、二つの原村があることは何かと不便であり、紛らわしいということで、区別するために、明治11年、上記の村名を原から上原に変えました。

 この時、志方町の原村は、下原(しもはら)と変わりました。

「上と下」、どうでもよいことなのですが、やはり価値観が伴います。「上」を選ぶのが人情です。

明治11年、両原村でどんなやり取りがあったのかわかりません。

志方の原は「下原村」を押し付けられています。

そして、昭和29年、西志方町原は志方町と合併した時に元の「原」に戻しました。

 それにしても、この時(明治11年)「どちらの村を上とするか」について、おそらく議論が沸騰したことと想像されるのですが、詳細はわかりません。

 「上原」は、そのまま今日にいたっています。

 *写真:原の仏性寺(記事内容と直接関係がありません)

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志方町を歩く(39):湯ノ山街道をゆく(16)・原の大池②

2011-07-07 07:53:56 |  ・加古川市志方全般

志方町には130あまりの池があります。

それぞれ歴史的な背景は異なりますが、多くの池は旱魃や洪水時に、なんらかの争いを経験しています。

大池の水争いをみておきます。

大池の水争い・山中新村敗訴

029_2明治1011月、「大池」の水をめぐって、大池から水を得ている成井村・西牧村・横大路村・原村・永室村が、山中新村を姫路支庁管内飾磨裁判所に訴えました。

大池の水は、上流(大池の1kmほど姫路より)の中山新村の小さな焼山池に流れ込み、そこから大池に流れています。

天明三年(1783)には、双方が証文を取り交わし和解していました。

弘化年間(184448)に、改めて証文を取り交わしています。

その中に「大池が満水の上は、焼山池へ水譲りもうすべし・・・」という文言があり、これをめぐって争い裁判に持ち込まれたのです。

結果は「山中新村の焼山池は、下流の大池が満水でない時は、水を取り入れることはできない」という江戸時代の慣行どおりに決着しました。

以上のように、明治時代の裁判でも農業用水は、江戸時代から続く水利慣行が守られました。

*写真:原大池の風景  

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志方町を歩く(38):湯の山街道をゆく(15)・原の大池①

2011-07-07 07:24:39 |  ・加古川市志方全般

山中集落から湯ノ山街道を東に歩き、原の大池の手前で、寄り道をして大歳神社に立ち寄りました。

そして、境内の「皇紀二千六百年の碑」や「西牧の大庄屋・内海氏」を訪ねました。

元の道に戻ります。

原の大池から志方町(しかたまち)へ歩きます。

まず、右手に原の大池の風景(写真上)が広がります。

    原の大池

025 原の大池は、横大路、原、成井、永室、西牧の集落にとって、まさに命の水甕です。

 これらの集落は、農業に十分な水を供給する川を持ちません。

 それに、急峻な山からの水は、そのままでは平野部へ流れ、法華谷川に流れ込んでしまいます。

 そのため、山に降った水を、いったん溜めておく池がどうしても必要になります。

 各集落でも小さな池を持っていますが、それだけでは十分ではありません。

原の大池の水は百姓にとって宝物でした。

それでも、しばしば旱魃に襲われています。

629日の神戸新聞では、大池の「樋抜きの儀」のようすを報じています。

    樋抜きの儀

梅雨入りとともに田植えシーズンを迎え、加古川市志方町原の大池で(5月)28日、農業用水を利用する5集落に分水する神事「樋抜きの儀」が行われた。

住民ら約25人が水利の安定と豊作を祈り、各集落に流れる水路にため池の水が注がれた。

 大池は面積9ヘクタール、総貯水量246500立方メートルで、志方町最大級のため池。

池を管理する横大路、 、成井、永室、西牧の各集落に注ぎ、約水田など110ヘクタールを潤す。神事は、池の水を使う前に行う伝統行事。

この日は各集落の町内会や水利組合の代表者らが見守る中、志方八幡宮の間原智子宮司が祝詞を唱え、一同で拝礼。大池のバルブを開けると、集落に配水する円筒形の施設「分水工」から水がごう音を立てて流れ出た。

 各地区の配水量や管理にかかる経費の負担は、昔ながらの「石高」で表した比率により、それぞれ定められる。

 成井町内会長の長谷川稔徑さん(67)は「昨年は猛暑と少雨でため池の水もギリギリだった。今年は適度に雨が降ってくれれば」と願いながら流水を見つめていた。                  (529日・神戸新聞より)

*写真:分水工

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志方町を歩く(37):湯ノ山街道をゆく(14)・西牧組大庄屋②

2011-07-06 08:19:52 |  ・加古川市志方全般

西牧組は、文化2年(1805)内海継之(つぐゆき)が、福居組から大庄屋を引き継ぎ、成之、敬十郎と三代にわたり、その職を世襲しました。

継之は、膨大な「内海日記」を残しています。

   内海敬十郎氏の表徳碑

01_027今日、紹介するのは、西牧・大歳神社の境内の内海敬十郎の表徳碑(写真)です。

この表徳碑については『志方郷(第21号)』で松本裕翠氏が詳細を紹介されていますので、お借りします。

詳しくは、松本氏のご研究をお読みください。

碑文は漢文で書かれて読みづらいので、その一部を松本氏の要約のさらに要約で読んでみます。

『彼の功徳は、一村に及びました。村民はそれを忘れませんでした。

君(内海敬十郎)の功徳は枚挙にいとまがない程多くあります。

その内、もっとも著名なことは、安政2年の「奥の池の上の池」の堤防を高くしたことです。

この工事の費用は巨大でした。

そこで、藩主に報告して救済を願いました。

藩主は、敬十郎の村を思う心からの願を察し、村に役人が来ること度々でした。

そして、敬十郎は、村の債務のすべてを償い、工事は完成しました。

・・・明治二十四年七月建立。

西牧村の財政を豊かにするために、大庄屋・内海敬十郎は、私財を投げ出して工事を進めました。

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