ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(63):円福寺④・満祐の思いとは

2011-07-28 13:28:02 |  ・加古川市東志方

008南北朝の説明は省きます。

赤松氏は、足利尊氏に忠誠を誓い、南北朝時代・北朝方として大きな役割を果たします。

建武三年(1336)、赤松氏の初代・円心(えんしん)は、播磨の守護につきます。

室町時代の守護所は、円心から四代・満祐まで姫路書写の坂本城におかれ、播磨だけでなく備前国・美作(みまさか)にも大きな支配下力を持っていました。

特に、印南郡は赤松の領地として強い結びつきがありました。

そんな赤松の領地に自分たちの影響を強める寺を建設するのは自然なことでした。

    円福寺の創建は応永四年(1397)か

以下、「志方郷(第48号)」の富永真光氏の研究をお借りします。

・・・当時、大豪族の習慣として後継者が元服すると同時に寺(寺領)をあてがうのが通例であったことから、円福寺創建は1397年(満祐15才・元服)当時であり、「円福寺護持ノ為寺領ハ高畑の田畑也」と寺伝に見えるのは事実であろう。・・・

以上の解説の後に、開山当時天台宗の寺院であったと書いておられます。

 ・・・・・

それにしても、寺院創建のため、満祐の名義による土地・財が高畑に与えられ、満祐名前を山号に、そして、戒名から寺の名を円福寺としたのは、満祐のこの寺に対して特別な思い入れが感じられます。

     満祐にとっての高畑は?

それは、何だったのでしょうか。高畑は個人的な思い出があった場所であったのでしょうか。

富永氏は「・・嘉吉の乱は、想定外の事件であったに違いない。

政界引退後の余生、満祐は髪をそり性具相全として円福寺に帰郷して平穏に最後をはずであった・・・」と書いておられる。

想像するしかないが、とにかく、高畑は満祐にとって特別な場所であったようです。

(仏教では戒名は生前に受戒式に出て、戒名を授かっておくのが本来のあり方としていますから、満祐が生前に戒名を授かっていても不思議ではありません)

 <蛇足>

満祐から土地と財をあてがわれ、高畑の氏寺を建造したことに対する高畑村の人々の感謝の印として、山号・寺名を付けたとも考えられなくはない。

そうであったとしてもやはり高畑は満祐にとって特別な地であったようです。

研究課題ができてしまいました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(62):円福寺③・赤松氏復活

2011-07-28 07:50:03 |  ・加古川市東志方

今回も嘉吉の乱の続きで、東志方の話が登場しません。ご了承ください。

   千代丸急死、しかし

Photo_2  嘉吉の乱で、六代将軍・義教(よしのり)を謀殺した赤松満祐(あかまつ・みつすけ)弟・満雅の子・千代丸は城山城無事脱出しました。

それを確かめて、満祐は自害しました。

この時、千代丸は9才でした。

そして、千代丸は京都三条家の所領である近江の願成寺へ送り届けられました。

というのは、満祐の弟の満雅の妻は京都三条家の出だったからです。

そこで、かくまわれて10年あまり後、千代丸は還俗して時勝と名のりました。

やがて、「赤松家の血筋を引く方が生きておられ」というニュースは旧臣に勇気を与えました。

が、それもつかの間、康正元年(145523歳で、時勝は急死します。

   赤松政則の誕生そして赤松家復活

しかし、偶然にもその年、時勝の死の前に男子が生まれました。

次郎法師丸です。何ともドラマチックな話です。

彼は、後の赤松政則です。

家臣連中が次郎法師丸を担いで赤松家再興の動きに出ます。

南朝方が持っている三種の神器の一つである神璽を取り返して北朝に納めれば赤松氏の復活を認めるという将軍家との密約ができました。

 *神璽(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)

奇跡的に、この神璽奪回作戦に成功し、赤松家は復活を遂げます。

この神璽奪回作戦時に赤松方により皇族の人が数人殺されました。

そのため、赤松氏は逆賊だともいわれていますが、世はまさに下剋上の時代です。

そういう事件はたびたび起きています。

この一事を持って「赤松は逆賊である」と決めつけられないと思います。

 *絵:赤松政則像

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする