ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(42):湯ノ山街道をゆく(19)・志方町(しかたまち)の道標

2011-07-09 13:37:35 |  ・加古川市志方全般

001_2 かつて、志方町を東西に貫通した「湯ノ山街道」を探しています。

湯の山街道は、昔日の面影をほとんど残していません。

でも、点として分かっている場所があるので、それをたよりに歩いてみます。

分かっている地点の整理しておきます。

第一の地点は山中の集落のすぐ西の「腹切り地蔵」のところです。

第二は原の大池の東北隅です。

ここから東(志方町・しかたまち)への道は、すっかり変わっていて元の道は、はっきりしません。

でも、第三点は前回紹介した原の道路元標のある場所だろうと思われます。

   志方町(しかたまち)の道標

第四点は、志方町に入り道標(写真)の残っている場所です。

今日は、この標識を見学します。

道標の文字は少し判読しにくくなっていますが次のようです。

  (左面) 左 三木有り馬

  (中央) 右 □□□□

       左 石のほうでんそねの松 

  (右面) 右 法花山

 道標の「左 三木有り馬」のあるのは、左の道は三木・有馬へ通じる道であることを表しています。

つまり、三木・有馬へ通じる「湯ノ山街道」のことです。

(「湯ノ山街道」は、湯山道・湯山街道・有馬道・有馬街道など、いろんな呼び方をされます)

 この道標の辺りは、すでに志方城下町に入っています。

 ですから、少し複雑な道となり、「湯ノ山街道(24)」で紹介した二子池の「ありまみち」の道標の場所へ通じていました。

次回では、志方城下町(しかたまち)を走った「湯ノ山街道」を歩いてみます。

  

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志方町を歩く(41):湯ノ山街道をゆく(18)・原に残る道路元標

2011-07-09 08:15:48 |  ・加古川市志方全般

009道路元標(どうろげんぴょう)は、旧道路法(1919)により各市町村に1個設置することとされ、その位置は知事が定めるものとしていました。

ほとんどは市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されています。

道路の起点・終点を市町村名で指定した場合は、道路元標のある場所を起終点としていました。

大正11年(1922)の内務省令は、道路元標の材質について、石材その他の耐久性のものを使用すること、正面に市町村名を記すことを定めるとともに、寸法なども明示していました。

が、現行の道路法(昭和27年法律180号)では、道路の付属物としているだけで、設置義務、材質、様式などについての定めはありません。

現在、設置義務がなくなったためか、加古川市域では、16ヶ所の道路元標が設置されていましたが、現在7ヶ所の元標が残るだけです。

   西志方村道路元標」

志方町内でも東志方村・志方村にも設置されていましたが、現在確認できるのは、西志方町原に残る元標だけです。

元標には「西志方村道路元標」と刻まれています。

志方村にあった元標は、志方町(しかたまち)松ノ木(小字)にあり、湯ノ山街道と志方道の通る重要な交差点にありました。

*「志方村と志方町(しかたまち)の呼称」については、混乱しますので、後に取り上げます。

現在、志方町域で現存する原の道路元標の場所について、『志方郷(39)』で、磯野道子氏が次のように説明されています。

「・・・志方町原の現在の交差点の西20メートル(原公会堂東隣)の道端にあります。

しかし、ここは、現在の交差点ができるまでの古い道であったと思います。

永室から原を通って小学校へ行く細い道と有馬道(「湯ノ山街道」のこと)との交差点の道端に立っています。

今でも、その細い道はありますが、大正時代には西志方村の中心として重要な交差点であったと思います。

*『志方郷(第39号)』参照

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