宮永半治氏(志方町細工所)は生前、細工所に置かれていたという、一ツ橋公の「細工所陣屋跡」を調べておられます。
しかし、陣屋跡は古老の口伝によると「旧東志方郵便局及び細工所公会堂を中心にあったという・・・・」という程度で、はっきりしません。
陣屋に関する記録もありません。
そんな中で、安楽寺に一基の陣屋に縁のある人の石碑を発見されています。
代官・元締・手代・書記のものかはっきりしませんが、戒名の院号や碑文から細工所陣屋でかなりの地位のあった役人のものと思われます。
墓碑の裏側の文字は、小さい字で、その上に埃が覆っており、読みにくくなっています。
宮永氏は、写し取られますので、それをお借りします。
(碑文)
表 円説院定岳教伝禅居士
裏 教禅代山崎諱教公称新蔵其の先江州人也
而後住於遠州矣迎住干江府住
一橋公官干播州也
天明元年丑年閏五月廿一日罹病
絡終後干播州細工所村之官署葬干同
安楽寺之北蛍年六十四
嗣子孝政建焉
簡単な訳をつけておきます
生前、戒名「円説院定岳教禅居士」は、生前、山崎新蔵といいました。
元、滋賀の人です。
その後、遠州(現静岡県)に住み、播州の一ツ橋公領の官吏でした。
天明元年(1781)五月二十一日、播州細工所の官舎で病気のため亡くなり、安楽寺に葬られました。
行年 六十四才でした。
息子の孝政がこの墓を建てる。
一ツ橋公陣屋跡については、わからないことばかりですが、宮永半治氏が発見された墓碑から確かに陣屋が細工所に置かれており、そして一時、山崎新蔵という官吏が勤めていたことがわかります。
写真:宮永氏が発見された墓碑(安楽寺本堂裏の墓地)