円福寺(東志方高畑)の本堂に向かって右隅に、県指定文化財の宝筐印塔(ほうきょういんとう・写真)があります。
高さ、約195cmの花崗岩製の宝筐印塔です。相輪は後のものです。
読みにくくなっていますが、次の銘があります。
一結衆 白・敬
康歴元年 巳・未 十月十日
康歴(こうりゃく)元年(1379)、この地方は赤松の支配下にありました。
北朝年号(康歴元年)
「康歴元年」は北朝年号で、この年、南朝年号では天授五年です。
赤松四代当主・義則が赤松家所領の五穀豊饒を願い、また「一結衆」とあるところから赤松一族の安寧祈願、さらに赤松一族の供養塔として造立したものと思われます。
円福寺の創建は、応永四年(1397)といいますから、それより18年以前のことです。
この宝筐印塔の「北朝年号」からもわかるように、赤松本家は、曲折はあったものの足利尊氏(北朝方)として活躍し、後醍醐天皇(南朝方)に敵対し時代を乗り切ります。
その後、赤松家も様々な興亡を繰り返しています。
円福寺は北朝方
円福寺は、北朝側の寺でした。
江戸時代までは、北朝側であろうが、南朝側であろうがあまり問題とならなかったのですが、明治時代となり突如「南朝正当論」が声高に叫ばれるようになりました。
そして、日本が戦争に突き進んでゆくほど、北朝を支持した赤松氏の逆賊度はますます高くなり、赤松氏は歴史の上、全く評価されなくなってゆきました。
赤松一族は、日本の歴史から追放されてしまったのです。
戦後、そんな歴史はおかしいと、学問的に足利尊氏・赤松氏の再評価がなされるようになりました。
でも、気になることがあるのです。それは、明治時代~戦前にかけて北朝支持を色濃く残す円福寺の立場は微妙であったと思います。
そのため、この時代、円福寺はあまり多くを語らず、背を丸くして若干小さくなっていたのではないかと想像するのです。
確かめずに書いています。
ともかく、円福寺の歴史は更に研究され、紹介され、志方地方の中世の姿を描き出したいものです。