ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(35):湯ノ山街道をゆく(12)・皇紀二千六百年

2011-07-04 23:49:21 |  ・加古川市志方全般

01_023湯ノ山街道を姫路の方向から山中の方向へ歩いています。

道は、大池の手前で左に折れ、西牧(にしまき)に入ります。

すぐに左手の山麓に「大歳神社」があり、草刈りをされた後でしょうか、草に火が入れられ、煙が風で神社と反対側に流れていました。

煙の向こうに、「皇紀二千六百年」の碑がありました。

この碑は、他の多くの神社でもよく見かけます。

若い方にとっては、何が2600年であるのか、意味もよく分からない方も多いと思いますので、ここでこの碑を取り上げておきます。

    皇紀二千六百年

2月11日は、「建国記念の日」です。

伝承では、この日、初代の天皇・神武天皇は奈良の橿原で天皇になる儀式をしたといいます。

昭和15年(1940)の215日は、その式典から数えて2600年目(皇紀2600年)にあたるというのです。

昭和15年は、日独伊三国同盟・大政翼賛会の結成等、日本は着実に戦争準備を整えていました。

「皇紀2600年」を祝う式典も戦争に備えて、国民の意識を高め、団結を強める意味がありました。

昭和16128日、日本は真珠湾を攻撃し、無謀な戦争へ突入しました。

私の父もこの戦争で戦死しました。

少し付け加えておきます。

皇紀2600年の式典のあった、1940年をさかのぼること2600年前は、縄文時代であり、天皇は、もちろん存在していません。

あくまでも神武天皇は、神話(伝説)上の人物で、実在した天皇ではありません。

*写真:大歳神社の「皇紀二千六百年」の碑

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志方町を歩く(34):湯ノ山街道をゆく(11)・山中、白鬚神社

2011-07-04 08:25:36 |  ・加古川市志方全般

01_008今、「湯ノ山街道」を歩いています。

湯ノ山街道を歩くといいながらも、肝心の湯ノ山街がはっきりしないため、それらしき辺りを歩いています。

湯ノ山街道は、姫路から荒神谷に入り、山中を通っていました。

コンビニで買ったお茶を片手に、汗を拭きながら山中を歩いていると、「白鬚神社」にであいました。

社殿の中央に「白鬚大明神(ひらひげだいみょうじん)」の立派な額があります。

この神社に関して『志方郷(32)』で、山中地区の方が解説しておられます。その文章の一部をお借りします。(一部変更)

   白鬚神社の由来

・・・白鬚神社の由来は『印南郡誌』に、白鬚神社は、西暦1600年代の頃、山中新村の村民は旱魃に苦しみ、江州(滋賀県)高島より水の神様として白鬚神社を勧請しました。(以上『印南郡誌』より)

    山中集落の白鬚神社は「水の神」

そして、中山地区の方は過日、滋賀県高島の白鬚神社へお参りをしておられます。

「・・・(神社に近づくにつれて)まず、目に入ったのは、豊かな水を湛えた水の中央に立つ朱塗りの大鳥居でした。

・・・水の神様だなと思いました・・・また、豊かな水を求めて、先祖がご分霊を乞い奉った意味がわかったような気持ちになりました。・・・」と書いておられます。

     滋賀県高島から勧請

神社の由来は一般的に「怪しい」のが通例ですが、山中の白鬚神社の由来はすんなりと理解ができます。

山中は江戸時代の初期にできた新田村です。

田畑を潤す水は集落の北と南にそびえる急峻な山からの水に頼らなければなりません。

その水も十分ではない上に、そのままでは急流となり流れ下ってしいます。

中山新村は、水の少ない新田村で、旱魃がしばしば村を襲ったことでしょう。

滋賀県の高島から水の守り神として、白鬚神社を勧請し、氏神さんとした当時の村人の気持ちは、容易に理解ができます。

なお、「白鬚」の言葉の持つイメージから、山中地区の老人クラブを「白鬚会」と名付けておられます。

◇山中について◇

江戸時代初期に印南郡中筋村(現・高砂市)の船津氏や加古郡溝ノ口村の大村氏により開墾され、寛文二年(1662)に印南郡山中新村が成立した。(『印南郡史』より)

とすると、来年は開村350周年ですね。

*写真:白鬚神社

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