旧湯ノ山街道を歩いてみようと軽い思いつきで「湯ノ山街道をゆく」を計画しました。
が、肝心の湯ノ山街道のもとの姿は圃場や道路網の整備等で消えて、ほとんど分からなくなっていました。
山中は、山と山に挟まれた街道沿いに沿った集落のため、だいたいは想像がつきます。
山中から原へ出たとたんに街道のもとの姿は分からなくなります。
しかし、志方町(しかたまち)に「ありま道(湯ノ山街道のこと)」の道標があり、湯の山街道が、そこを通っていたことが分かります。
地図で志方町の道標と、原の大池の横の道を結んでみました。
湯の山街道は、原の集落と通っていたことは確かなようです。
そのため、原をあるきながら目についたもの、思いついたことを少し書いておきます。
印南郡下原村
それにしても原とは、シンプルな集落名です。
しかし、村名が原に落ち着くまでには、それなりの歴史があったようです。
『印南郡誌』によると、「原は、江戸の初期、印南郡重国村と藤池村そして比室村の一部が合併して印南郡原村とした」とあります。
後に、原新村を分村するのですが、明治9年に再び原新村を合併しています。
下原村から原村へ
天文元年(1532)の報恩寺(加古川市平荘町)の文書に「薬師堂、鎮守伊和明神、原村有之」とあります。
ここに見える原村は、現在の加古川市平荘町上原(かみはら)のことです。
印南郡に、二つの原村があることは何かと不便であり、紛らわしいということで、区別するために、明治11年、上記の村名を原から上原に変えました。
この時、志方町の原村は、下原(しもはら)と変わりました。
「上と下」、どうでもよいことなのですが、やはり価値観が伴います。「上」を選ぶのが人情です。
明治11年、両原村でどんなやり取りがあったのかわかりません。
志方の原は「下原村」を押し付けられています。
そして、昭和29年、西志方町原は志方町と合併した時に元の「原」に戻しました。
それにしても、この時(明治11年)「どちらの村を上とするか」について、おそらく議論が沸騰したことと想像されるのですが、詳細はわかりません。
「上原」は、そのまま今日にいたっています。
*写真:原の仏性寺(記事内容と直接関係がありません)