以前に取り上げた話題ですが、一ツ橋領(天領)を歩いていますので、復習をしておきます。
一ツ橋領の木綿藩仲間と姫路藩の専売制度
加古郡・印南郡で生産される白木綿を「長束木綿(ながそくもめん)」といいました。
姫路木綿は、二つのルートを通じて江戸・大坂へ出荷されていました。
一つは、姫路周辺の木綿・綿布で、国産木綿問屋をとおして、他は長束木綿問屋を通して行われたのです。
姫路城周辺の木綿問屋は、江戸積に積極的でした。
しかし、長束木綿問屋は、今までの取引の関係もあり、必ずしも江戸積み一本にまとまっていませんでした。
莫大な借金を抱える藩としても、江戸積みだけに頼るわけにはいけない事情もあったのです。
藩側は、江戸積み重視の立場から、幅・長さ等の規格を厳しくしました。
つまり、規格外の商品もできてしまいます。しかし、「規格外の商品は、江戸積みとして認めない」というのです。
藩主・酒井忠道(ただひろ)の文化五年(1808)、藩には73万石の借財があり、家老の河合寸翁は、播磨地方が木綿の産地であることに着目して、綿布の姫路藩の専売にしました。
さまざまな妨害がありました。
特に、江戸直送には、大坂商人の妨害もありました。それまでの商の慣習を壊すのですから当然です。
しかし、綿密な調査・江戸問屋や幕府役人への説得により、文政六年(1823)江戸への木綿専売が幕府に認められました。
これは、「藩主・忠学(ただひろ)の妻・喜代姫(きよひめ)が将軍・家斉(いえなり)の娘であったためでもあった」ともいわれています。
ともかく、姫路綿の江戸での販売は好調で、藩の借金は、短期間に返済し終えることができました。
一ツ橋領は、姫路藩にあらず
一方、規格外の商品の大坂への積み出しも増えました。
藩は、規格を守るように取締りを強めたのですが、取り締まれない事情があったのです。
印南郡の一部は、一ツ橋領(天領)で姫路藩ではありません。
姫路藩としても、一ツ橋領の取り締まりはできません。
そんな事情で、一ツ橋藩の商人は姫路藩では認められない綿布なども取り扱ったのです。
とりわけ、細工所の木綿商人より、今市・中島・曾根(現:高砂市)の村々の木綿商人にこの傾向は大きく、彼らはひと儲けをしたというわけです。