今日の「志方町を歩く」は、「宝永大地震」・「宝永の大噴火(富士山)」の話で、志方町と関係なさそうな話題のようですが、この事件が志方がと関係してきます。
次号では、その関係をみますので、今回はそのための予習(予備知識)です。
宝永大地震
宝永四年(1707)、10月28日(旧10月4日)東海~南海巨大地震である宝永地震(M8.4)が発生しました。
宝永地震では、地震の被害だけでなく、伊豆半島から九州にかけての海岸を大津波が襲い、津波による家屋の倒壊は2万戸、死者は少なくとも2万人に達したといわれています。
富士山の大噴火(宝永4年・1707)
その宝永地震の49日後の12月16日(旧11月23日)の朝10時ごろ、富士山の大噴火が始まりました。
その日の朝噴火が始まると、山麓の村々には焼け石が絶え間なく降り注ぎ、家も畑もたちまち、その下に埋まっていきました。
江戸でも、その後10日あまり灰がふり、時には栗粒ほどの黒い砂が降り、家々の屋根に落ちる音が大雨のようだったと言います。
特に、噴火の大きな被害を直接受けたのは小田原藩の各村々でした。
噴火が終息し彼らが帰って見たものは、一面に灰や焼砂に覆われた絶望的な村の風景でした。
人々は、すべての収穫を奪われてしまいました。
たちまち飢饉が襲いました。餓死するものも相次ぎました。
小田原藩は、米一万俵を各村々に分配したのですが、その程度では飢饉をとうてい救えません。
その上に、降り積もった焼け砂や灰を除去するには多大の労力と経費を必要としました。
小田原藩領民の自力だけでは不可能でした。
この窮状に対して、幕府も救済の手を差し伸べざるを得なくなりました。
翌年、被害の大きかった村々を一時幕府の直轄領とすることにしました。
また、幕府は被災地域救済のために、全国の公領・私領を問わず、高100石につき2両の義捐金を課しました。
こうして、諸国から集まった義捐金は、40万両にも達しました。
が、幕府が実際に被災地の救済に使ったのは16万両にすぎず、残りの24万両は江戸城の修理に流用してしまいました。
このような体たらくですから、復旧もままなりませんでした。
悪いことは重なるものです。
火山灰で川底が埋っているところへ8月7日(旧6月21日)午後から翌日にかけ、激しい豪雨が襲い、土石流や土砂崩れを引き起こしました。
そのため、被害は一層、悲惨なものとなりました。
*絵:浮世絵の宝永火口(歌川広重)
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