断 頭 場
その右面には次のように刻まれています。
天明八戌申六月十八日 終焉
行年 六十二 *天明八…1788年
旧暦の六月は、今の暦ではちょうど今頃(七月)です。
『志方郷(第45)』で、松本光明さんの書かれた文の一部をお借りします。
「・・・六月十八日、朝八時、大坂より連れ戻した九郎太夫をば、行常裏山において、獄門に処した。
現在、行常村では「断頭場」(写真)を称する広場があるのはこの場所に他ならぬ。
・・・」
先日、この「断頭場」に立ってみました。
連日の暑さは嘘のように、涼しい風が吹いていました。
行常の集落が眼下に広がっています。
九郎太夫の目には、最後の行常の景色はどう映ったのでしょう。
なぜ「麦」を要求したのだろう
ここから、少し蛇足を書いておきます。
歴史的に確かめられた解釈ではありません。
◇麦 秋◇
4・5・6月の3ヶ月は、冬作麦の刈り取りの時期に当たります。
特に5・6月ごろは麦の収穫期で、この時期を「麦秋(ばくしゅう)」と呼んでいます。
麦秋というと、どこか「ロマンチック」にさえ感じる言葉です。
が、麦秋の頃は、食料の端境期に当たるため飢えの季節です。
さらに、この時期は梅雨のために疫病が流行する時期です。
農繁期の過酷な労働と飢えと疫病とが重なって農民たちにとっては厳しい季節でした。
死者が多かったのもこの季節でした。
この夏の飢えを乗り切るための食料が、特に5・6月に収穫する麦でした。
つまり、飢えを乗りきるため麦を要求したのではないでしょうか。
幕府のあせり
幕府代官領(天領)の場合、最小限の事務官僚を持っているだけで、普通、武力といったものを、ほとんど持っていません。
そのため、天明時代に先立つ、元禄~享保時代以降、それまで藩(私領)中心におきていた農民一揆は、軍事力の弱い天領で多く発生するようになりました。
幕府には「あせり」が厳しい処罰になったと思えるのです。
行常の厳しい弾圧は、「見せしめ」のためであったと思えるのです。
それにしても、どうして竹内九郎太夫が播磨一ツ橋領六郡の百姓の惣代となり「強訴」をしたのでしょうか。
ご存じの方は、ご教示ください。
*写真:断頭場(行常)