「志方町を歩く(49・50)」の復習をしておきまます。
東志方9ヵ村は、小田原藩領に
宝永4年(1707)11月23日(現暦:12月16日)、「宝永の噴火」と知られる富士山が、空前の大爆発をおこし、南関東地方に大災害をもたらしました。
ことに、富士山は、膨大な火山灰を噴出させ、風下の小田原領を直撃しました。
当時、小田原藩の藩主・大久保忠増は幕府の老中でした。
小田原藩の領土の過半を一時、幕府に返上にしてしまったのです。
そして、小田原藩は、それに代わる土地を宝永5年に、復興がなるまでという期限つきでしたが、新たな領地を得ました。
その一つが、東志方の9ヵ村(大沢・行常・細工所・野尻新・岡・柏尾・吉弘・高畑・大宗の各村)でした。
この状態が約40年、延享4年(1747)まで続きました。
一ツ橋領(東志方9ヶ村)
その後、東志方のこれらの村は、新たな支配領に組み込まれることになります。
八代将軍・吉宗は、家康によって創設された御三家にならって御三卿(ごさんきょう)を創設しました。
東志方の9ヶ村は、相模小田原藩の領土でしたが、延享4年(1747)から今度は、そっくり御三卿の一つの「一ツ橋領」に組み込まれたのです。
つまり、東志方9ヶ村は天領となりました。
そして、東志方の9ヶ村は、一ツ橋領として江戸時代の終わりまで続きました。
一ツ橋公陣屋跡
印南郡では、東志方の9ヶ村の外に曽根村・今市村・中嶋村(以上は現、高砂市)が一ツ橋領となり、陣屋(役所)は、細工所に置かれました。
しかし、現在陣屋の遺構は、何も残っていませんし、詳細もわかりません。
ただ、細工所公会堂の庭に「細工所陣屋跡」の碑(写真)が、陣屋があったことを物語っているばかりです。
地元の宮永半治さん(故人)は、『志方郷(第2号)』で「一橋公細工所陣屋」について寄稿されていますので、次号で掲載させていただきます。