ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(47):志方町から志方村へ

2011-07-14 08:05:18 |  ・加古川市東志方

「湯ノ山街道をゆく」で、さかんに「志方町(しかたまち)」をつかいました。

 ここで「しかたまちしかたちょう」について整理しておきます。

志方町から志方村へ

Fc4006a4 明治2241日、志方町(しかたまち)・西中村・西飯坂村・投松村・上富木村が合併して志方村が誕生しました。

「おや!」と思われた方もおられるのではないでしょうか。

「志方町が合併して志方村になるなんて・・」と。

志方の位置地図で確かめてください。

ここを姫路から三木・有馬を通り、京都・大坂にぬける「湯ノ山街道」が通っていました。

それに、南北の北条へ抜ける道もありました。

つまり、志方は交通の要衝であり、戦国時代・櫛橋氏は、ここに志方城を築いたのです。

かつて、志方は商業・政治の一大中心地でした。賑わいがありました。

そのため、ここは「村」ではなく、志方町(しかたまち)と呼ばれました。

加古川市では、外に寺家町の例があります。

江戸時代・志方には、志方東町と志方西町があり、明治111月に合併して志方町(しかたまち)となっています。

くどくなりますが、「しかたまち」と読むことを、もう一度確認しておきます。

つまり、明治2241日地図にある村々が合併して志方村が誕生しました。以降、志方村の中に、大字・志方町(しかたまち)があるという妙な形で今日にいたっています。

そして、志方村および西志方村・東志方村の三村は、昭和2981日に合併して志方町(しかたちょう)に、昭和5421日に加古川市と合併し、加古川市志方町となり今日にいたっています。

*『兵庫県市町村合併史』(兵庫県総務部地方課)・『かこがわ万華鏡』(岡田功)・『志方町誌』(志方町)参照

コメント
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