ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(33):湯ノ山街道をゆく(10)・一里塚

2011-07-03 00:07:33 |  ・加古川市志方全般

        門松は 冥土の旅の 一里塚

       めでたくもあり めでたくもなし

これは一休さんの作だといわれています。

もちろん、一休さんが生きた時代は(13921481)に、一里塚はつくられていません。したがって、この狂歌は江戸時代の他の人の作品です。

一里塚は、慶長9年(1603)、二代将軍・秀忠が日本橋を起点として街道筋につくらせてから、次第に全国に広がっていきました。

一里塚は、普通周囲が五間、高さ一丈の土を盛り上げ、そして目印に榎や松が植えられました。

兵庫県の一里塚は、ほとんど松が植えられました。

二つの一里塚

01_005志方町域には、旧湯ノ山街道に沿って二つの一里塚がありました。

一つは、前号で紹介した「胴切れ地蔵」の場所です。

昭和60年位までは大きな松の切り株が地蔵の横に残っていました。

それが一里塚に植えられた松の木でした。

古老の話では雷が落ちて松は裂けてしまったとのことです。

もう一つの一里塚は、「志方町を歩く(24)」で紹介した上富木・二子池の西南隅の道標がある場所です。

昔は松の木が植えてあったと古老は伝えています。

*写真:中山集落の西に地蔵堂

*「一里塚と腹切地蔵(志方郷・第5号)」参照

コメント
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