門松は 冥土の旅の 一里塚
めでたくもあり めでたくもなし
これは一休さんの作だといわれています。
もちろん、一休さんが生きた時代は(1392~1481)に、一里塚はつくられていません。したがって、この狂歌は江戸時代の他の人の作品です。
一里塚は、慶長9年(1603)、二代将軍・秀忠が日本橋を起点として街道筋につくらせてから、次第に全国に広がっていきました。
一里塚は、普通周囲が五間、高さ一丈の土を盛り上げ、そして目印に榎や松が植えられました。
兵庫県の一里塚は、ほとんど松が植えられました。
二つの一里塚
志方町域には、旧湯ノ山街道に沿って二つの一里塚がありました。
一つは、前号で紹介した「胴切れ地蔵」の場所です。
昭和60年位までは大きな松の切り株が地蔵の横に残っていました。
それが一里塚に植えられた松の木でした。
古老の話では雷が落ちて松は裂けてしまったとのことです。
もう一つの一里塚は、「志方町を歩く(24)」で紹介した上富木・二子池の西南隅の道標がある場所です。
昔は松の木が植えてあったと古老は伝えています。
*写真:中山集落の西に地蔵堂
*「一里塚と腹切地蔵(志方郷・第5号)」参照