『志方町を歩く(25)』の復習をしておきます。
志方城の戦い
戦国時代、加古川地方の城主は、ほとんど毛利に味方した三木方につき、信長・秀吉と戦いました。
まず、野口の城が落城し、ついで、神吉城が信長方の大軍におしつぶされました。
その後、信長軍は志方城へ攻め寄せました。この時(天正6年・8月)の戦いの詳細は、はっきりとしません。
志方城には1.000余騎が立て籠もり、勇敢に戦い、小城にもかかわらず20日も抵抗したと言う説があります。
志方城に先立つ神吉城の戦いでは、神吉方2.000の軍勢は、織田方の30.000の軍勢に押しつぶされ、そして城主(神吉頼定)も討たれました。
この時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はありませんでした。野口城の戦いでも援軍はありません。
志方城の戦いでも援軍は期待できませんでした。負け戦は確実の状況でした。
唯、戦うとすれば「勇敢に戦ったという事実を歴史に残す」という美学だけが支えの戦いになります。
志方城は落城したが・・・
志方城落城について『志方郷(第50号)』で、三村隆子さんは「・・・周辺の城は落城していく中で、城主は、今はこれまでと城をでて降伏、自分の命と引き換えに助名を願ったのである。
官兵衛は、一族を家臣にむかえ入れたというが、幸圓の存在なくしてはなかったことと思う。・・・」と書いておられます。
また、『志方郷(第12号)』の船江不二男さんのご研究をお借りします。
「・・・(城主・櫛橋)は、当然殺されるところであったが、幸いにも娘が黒田官兵衛であった関係上助命されて、のちに官兵衛の臣となり、そのご子孫も福岡で黒田藩の臣下として安定した生活をつづけられた。・・・」
「・・・そして現在(平成四年)、ご子孫の櫛橋昭さんは、昭和三年生まれで羽曳野市に住んでおられるが、若いころ阪大の研究室でガン治療に必要なベータートロンの開発に貢献されている・・・」
*写真上:志方城跡に建つ観音寺山門