投松に残る「湯ノ山街道」
志方町(しかたまち)から二子池までの湯ノ山街道は、元の姿はわからなくなっています。
二子池の道標から投松(ねじまつ)までの道も、またまた消えてわかりません。
志方町域を東西に貫いた旧:湯ノ山街道は、まさに幻の街道となりかけています。
さいわい、『志方郷(第7号)』で、磯野道子さんは、投松を通る「湯ノ山街道」について書いておられます。
(一部、文章を変えています)
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投松(ねじまつ)の中に有馬道(湯ノ山街道)は残っていた。
飲食店「ジョイフル」の北を通って、新道に並行するような形で、村の中を東へ進み、村を出外れると、左手に山や種鶏場を見ながら、峠下の池・峠上の池を右に見て、投松峠の上まで続いている。
「この辺りは、道の両側から木々の枝が茂ってきて、長い間、昔の面影が残っていたところです」
これは近くに住むおばあさんの話である。
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兵の道・湯治客の道
この道は三木・有馬へ、そして京都へ続いた山陽道(江戸時時代は西国街道と呼ばれる)の裏街道でした。
「湯ノ山」とは有馬温泉のことです。つまり「湯ノ山街道は、有馬を通り京都に通じる道のことです。
湯ノ山街道は湯治客の道ばかりではなく、南北朝の時代には播磨と西摂津を制した赤松氏がこの道を重要視し、軍用道として整備しました。
その後、三木合戦では、まさに兵の道となりました。
そして、三木合戦を制した豊臣秀吉は有馬温泉を愛し、有馬温泉はますます栄え、それに伴い、往来する湯治客や旅人は多くなりました。
六甲山の北を通って姫路から京都へのこの道を、人々は「湯ノ山街道」と呼ぶようになりました。
*写真:投松に残る旧・湯ノ山街道(一部)