姫路から荒神谷、山中、原、志方町と通り投松(ねじまつ)へ抜ける道は旧湯ノ山街道です。
荒神谷から中山に向かう途中に一里塚の跡があり、「胴切れ地蔵」(写真)があります。
この地蔵には、二つの話が伝えられています。
三木城の落ち武者絶命!
ひとつは、三木城が落城したとき(天正8年・1580)、一人の落ち武者がここまで逃げてきました。
しかし、二十二ヶ月にもおよぶ籠城戦の末のこと、武者は、飢えと疲労で気を失って倒れてしまいました。
この話を聞いた村人は、ようすを見に出かけました。
武士は切腹して息絶えていました。
三木落城を知り落胆・切腹!
もう一つの話は、三木城を応援するために西国から駆けつけた武士が、ここまで来て三木城の落城を知り、落胆のあまり切腹してしまったというのです。・・・
ともに、戦国時代の三木合戦にまつわる伝承です。
村人は、その後に「石の地蔵」をつくり武士の菩提を弔いました。
「このお地蔵様の胴は、しばらくして二つに割れて、腹を切ったようになった」といいます。
この「胴切れ地蔵」は、どんな願でも一つだけ叶えてくれるといわれています。
お地蔵様の前の道は、姫路から志方・三木・有馬・宝塚を抜け、そして京都へと通ずる「湯ノ山街道」です。
三木合戦では、湯ノ山街道を多くの武士が駆け抜けました。
そのため、ここに三木合戦にまつわる話が伝えられているのでしょう。
なお、加古川町平野にも「胴切れ地蔵」の話があります。
「加古川町探訪・胴切れ地蔵」も、あわせてご覧ください。
*『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)参照