きんちゃんの観劇記(ネタバレだよ)

思いつくまま、適当に。

「300/スリーハンドレッド」

2007年06月17日 | 映画
 見ようかどうか迷っていたけど、某掲示板に、「DVDより大画面で見るべき」とあったので、行ってきました。アメコミ調と聞いていたので、もっとトンデモを想像していたけれど、それなりに政治的な駆け引きもあったし。思っていたよりストーリーがあった。
 しかし、それにしても。CG加工バリバリとはいえ、スパルタ軍団の絵ヅラは迫力がありますなあ。しかも、監督ってゲイなのかしら?とか考えていたのですが、少なくとも、画面的にはそれを窺えるところはありません。ゲイの監督って、もっとねっとりと男性の身体を映すよね。それがないってことは
純粋な
筋肉フェチ
だな
それはそれで、なんだな。

 「シン・シティ」より、色はどぎつくない。政治的な標語?も、いまどきの某国と重ね合わせてるなとは思うけど、気になるほどじゃなし。歴史絵巻を眺めるぐらいの軽い気持ちで、どーぞ、ってなもんだね。
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「ジーザス・クライスト=スーパースター ジャポネスク版」劇団四季(2回目)

2007年06月17日 | 劇団四季
 我慢できなくなって2回目です。まず先日分の訂正を。ユダのズボンはプリントではなく造花付きでした。左足の腰から裾まで一直線。上は灰色、下は白色、その間はグラデーション。先日は立体感まで把握できなくて、プリントに見えたのよ。今日はじっくり見てきたわ。
 気になっていた彼のお肉はそれほど見えなかったけど、確かに弾力はありそうだったけど、ぷにってかんじはするけれど、余っているほどではない。肋骨がうっすら見えるし。ただ、かなみちゃんのように、贅肉を落として筋肉へ、ではなく、肉は落ちたけど残ったのも肉、ってかんじでしょうかね。

 さて、07年ジャポネ2回目。マリアの位置がいまいち不明だったのが、さらに不明になってしまった。私は「JCS」を初めて見たのがエルサレム版で、マリアが佐渡さんだったせいか、「JCS」のマリアって、マグダラでありつつも、聖母(ジーザスの母ね)も兼ねている部分があるのかな、と思っていたのですわ。それがその後のジャポネでは、「女」の部分が強すぎて。先日はそこまで見ることはできず煩悩にまみれていたのですが、今回見ると、やっぱ、生身の「女」の部分が強いかな、と。たださ、ジーザスを愛する二人の人間のうち、一人は、「神の子」の部分を愛して、もう一人は「人の子」の部分を愛していると思ったのよ。最近のドラマに例えるとだね、鬼の響鬼さんに憧れる京介くんと日高仁志さんに憧れる明日夢くんみたいな。どちらもジーザスではあり、その2つで成り立っているんだけど、「神の子」の部分は皆に見えて、「人の子」の部分はユダにしか見えない。民衆が勝手に作り上げた虚像に重ねられそうになって苦しむジーザスを見たからこそ、ユダは裏切ったのではないのかな?「人の子」に戻りたい、というジーザスのかすかな願いをユダだけが感じ取り、自分だけが、彼の本当の願いを知っていると思って、その望むとおりの行動をとったのではないかな?もちろん、「皆」からジーザスを奪い取りたい、って気持ちもあったと思うけどさ。だからこそ、最後に問うのではないの?「誰だ、あなたは、誰だ」と。真実、自分が神の子だと思うのか、と。
 そういうユダを作り上げるには、マリアがただの「女」であってはいけないんだな。ただの「女」であれば、ごくごく普通の三角関係じゃん。彼女の歌う「愛している」は、エロスよりアガペーに近い方じゃないのか?
 とは、思うけど、「私のことをわかるのはマリアだけだ」で、マリアに向けるジーザスの笑顔は、妙に親しみがある。「ダビンチ・コード」のように、ジーザスとマグダラのマリアの間に子供がいたという俗説(珍説?)が最近世間を駆けめぐっていることもあって、余計にそう見えてしまうのかな?またねえ、「・・・マリアだけ」のところで、それまでうなだれていたのに、ピクッと反応するユダを見ると
嫉妬だね
としか思えないよねえ。
 いろんな感想を読みに行けば、わかりやすく書いてあるところがあるかもしれない。でも、私自身の感情では、まだ、わからない。同じキャストでもう一回見て、違うキャストでもう一回見て、比べてみると、なにかわかるかもしれない。けれど、私の財布はもう見るな!と言っている。難しいわあ。エルサ版とジャポネ版の違いだったりするのかなあ。少なくとも、3年前も、エルサ版で感じた関係は、ジャポネ版では感じられず、もっと単純な図式になっていたように思うしな。

 楽曲は、やっぱり、いい。クセになりそうだ。ジーザスとユダは高音押さえ気味。司祭は低音キツそう。マリアは殆ど訛りは感じないけど、ゼロじゃない。

 柳瀬さんも十字架に掛けられたとき肋骨が浮かんでいたよ。あの十字架の仕掛けが、いまひとつわからない。手はどうやって固定しているのかしら。じっくり見たくても、話の流れとしては、見辛いんだよねえ。

 金曜日の日記に書き忘れていたんだけど。私の前に座っていたカップルは、途中で寝ていたよ。ディズニー物やオペラ座の感覚で来ちゃったんだろうな。でも、ある程度の予備知識がないとツライ演目だよねえ。致し方なし、と思っちゃいました。

 映画の「パッション」を見た人の感想の中に、「復活を約束されているのだから、鞭打ちだってなんだって耐えられるのではないか?」というのを見たことがあった。でも、人って、目先のことに流されるよね。例え、生き返りますよ、と言われても、肉を裂かれ、身体に釘を打たれたら、その場で棄教する人も出てくるでしょう。崇高な意志を持てと言われても、それを持続させるのは難しい。祈りの場を生活の場にしてしまった民衆を見て、そのことを思い出しました。うつろいやすい気持ちを持つ人々を導くのって、むずかしいよねえ。

と、わけのわからん内容のまま尻切れトンボで終わります。
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