先日、ある和菓子の店に孫を連れて買い物に行ったが、人通りが多い所にある店ではなく、駐車場もないので「これで商売になるのか」と思ったほどだが、昭和30年代頃の雰囲気がある店構えから、後日近所の方の話を聞いたところ、かなり繁盛しているとのことであった。
5種類位の和菓子を選び、「全部でおいくらですか」と言うと、若い店員は今では珍しくなってしまった「そろばん」を使って代金を計算していたことから、私は「レジが使われるのがあたり前の時代に、そろばんとは驚きました。ですが、この店にはレジより、そろばんの方が似合いますね」と話したが、何でも新しいものが良いのではなく、この和菓子の店のように、何年も使われているであろう「そろばん」をこれからも大事に使っていくことの方が良いと思う。
カメラにしても、今や「デジタルカメラ」が主流となり、フイルムを入れて撮影するスチルカメラを使うことは少なくなったが、それでも、スチルカメラを捨てずに、時々出してはシャッターを切る音を楽しみ、レンズの汚れをクリーニングペーパーで取っているが、もう使うことはないだろうと思っても、アナログ物には捨てがたい味があるのは、デジタル物と異なり、まだ何年も使えるからではなかろうか。
富士五湖の一つである西湖の近くに茅葺きの集落「西湖いやしの里根場」があり、先日友人と行ってきたが、日曜日のせいか多くの観光客で賑わっていた。この場所にはかって茅葺きの集落があり、それが昭和41年に起きた土石流によって大きな被害を受け、ほとんどが流失してしまったそうで、それから40数年の歳月を経て、昔懐かしい茅葺きの集落が再建されたとのこと。
今風の近代的なものを作り、観光客を呼び込もうとしても、最初は良くても、すぐに飽きられてしまい観光客も遠のいてしまうようだが、「西湖いやしの里根場」のように再建されたものであっても、日本の古き時代を思わせるものは、その時代を知らなくとも、また来たくなるし、現に「重要伝統的建造物群地区」などに指定され、古い街並みが今でも残っている所に多くの観光客が訪れているのである。
映画「三丁目の夕日」がヒットしたのは多くの方が郷愁を覚えたからであり、何でも新しくすれば良いのではなく、今の日本にとって大事なのは、昔のものでも良いのものは残しておくことではなかろうか。
(2009/04/27)
写真:茅葺きの集落「西湖いやしの里根場」
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それが「良いもの」だからでしょうね(^o^)
五箇山集落に至っては「世界遺産指定」
されるほどの「歴史的建築物」に
成っていますし(^o^)
近年、全日本空手道連盟は空手道をオリンピックの正式種目とすることを目指して、様々な活動をしております。
そのこと自体は、非常に素晴らしい活動だと思うのですが、反面、あまりにもスポーツ化し過ぎて、武道本来の「心(=武士道)」や底力を養うことが疎かになっているようです。
例えば、外国人の空手マン(空手家とは言いたくないのでこう言います)は、勝利の時に派手なガッツポーズをしたり、奇声を上げたりして大喜びします。
本来、技を極めた後の「残心」によって、倒した相手に対して敬意を払う意味もあるはずなのに、彼らの「残心」は形だけの物になっています。
<つづく>
また、形競技の評価基準においても、まるで何かの「踊り」の様で、立ち方やキレ、技や動きの精度・緩急を評価すると言うよりも、様々な着色が施されて、見栄えを良くすることに重きを置かれています。
我々の指導も難しいところで、本来であれば、巻き藁を突き、サンドバッグを蹴り、基本を何百回と練習するような「地稽古」をして、「地力」をつけるような稽古をしたいのですが、それだけでは生徒達は試合に勝てず、面白くなくなって、やはり空手から離れてしまいます。
続けて行く事が何より大事だと思いますので、そのジレンマは大いにあります。
柔道が「JUDO」となったように、空手も「KARATE」となりつつあります。
そんな中でも、「空手道」と「KARATE」の上手く融合させる稽古を模索しております。
学校なんかもそうですね。
卒業した学校が変わらずあって、訪ねれば、良い先生や友達を思い出せて、そこに古い桜の木がある。
桜が咲いている季節に訪ねれば父や母が入学式に来てくれたり喜んでくれたのを思い出す。
人生には変化と継続している、という感覚が大事なんだと思います。
いいですよね、こういう風景落ち着きます。
私の母方の田舎は20年位前までは藁葺き屋根でした。葺き替えの時は近所中が集まって皆で協力し合う。お昼にはおにぎりが出てこれがまた旨い。夏は涼しく冬は暖かい。
僻地と言う言い方は余り好ましくないかも知れませんが、まだまだ残って居るんですよね。お目に掛かると何故かホッとする瞬間です。
神社仏閣もその当時が偲ばれる様な佇まいであれば何時間でもそこに居られるというのはやはりそこに日本人としての心のふるさとがある様に思います。
五箇山集落は10年前に友人と行ったことがあり、合掌造りの民宿に泊まったのですが、囲炉裏のまわりで食べたご飯がおいしかった記憶があります。朝早く起きて散歩をしたのですが、まさに日本の原風景で、心が安らぎました。また行きたいと思っております。
コメントありがとうございます。空手道に限らず、武道は礼に始まり、礼に終わるものですが、外国人には十分に理解されていない面があり、例えばオリンピックでの柔道競技でも見られるよう技とは思えない方法で相手を倒したり、勝負に勝った後の態度、また負けた時の態度にも問題あり、不愉快になることがあります。やはり日本の武道は、ものの考え方が異なる外国人には、その心まで極めるのは無理ではないかと思っています。
コメントありがとうございます。桜の花は、門出に相応しく、その花を見る度に「あの時も綺麗に咲いていた」との記憶が蘇ります。多くの学校には桜の木でなくとも、子供達の生長を見守ってきた木があることでしょう。また何かの記念に木を植えるのも良いものですね。
この時は良い天気で、富士山も良く見えました。「西湖いやしの里根場」は初めて行ったのですが、昔からのものではなく、再建されたものであっても、やはり日本人はこのような昔ながらの雰囲気がある所はホッとするのでしょうか、ですから観光客が多かったですね。最近は茅葺きの民家を再建し観光客を呼ぶ自治体もあるようで、大変良いことだと思っております。
お分かり頂いていることかも知れませんが、僭越ながら、一つだけ付け加えておきたいことがあります。
それは、外国人にも「空手家」はいる、と言うことです。
と言うのも、私がカナダにいた時にお世話になった先生がおられるのですが、その先生の道場では、技術だけではなく、空手の心も教えておられました。
ですので、ガッツポーズなどは当然しませんし、他所から来た見ず知らずの私に対しても、ブラックベルトを締めれば敬意を持って接してくれました。
肝要なことは、指導者が日本人、もしくは日本の「武士道」と言うものを理解しているかどうかでしょうね。
空手を世界に広めるのなら、同時に日本武道としての心も指導していって欲しいものです。