言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

論理は嘘をつく

2016年07月10日 17時40分33秒 | 日記

 先日、同僚と話をしてゐて、生物の教科書がとても詳しく、厚くなつたといふ話題になつた。

 そこには、生物の教員がゐなかつたので、ざつぱくな話ではあるが、体育の教師がそこにいゐらしたので疲労の話をした。「例へば疲労といふ現象も、以前は乳酸がたまつて起きると説明されてゐたが、今では脳の認識の問題が大きいさうですよ」。「なるほど、さうですね。筋肉に乳酸がたまつたといふ事実と、疲労感が生じるといふ事実が二つ同時に起きたら、そこに因果関係があるとして疲労のメカニズムとして説明したといふことですね」。

「鶏が鳴いた」と「朝日が昇つた」との関係は因果関係でないのは明らかだから、さう言ふ人はゐないが、疲労の場合には、結果的現象である二つの事柄に因果関係を見出してしまつたといふわけだ。少し話題が違ふかもしれないが、歴史の教師にからめて、「今は、日本史の教科書に士農工商を身分制度と関連付けて説明はしてゐませんよね」と振ると、「その通り。武士とそれ以外といふ区分はあるが、それが身分制度であるとは説明しない」とのこと。現象を意味づけるのは、見る側の観念である。観念はじつに巧妙な論理をまとつて表出されるから、人は惑はされる。論理といふものは、じつに厄介である。

 はじめに結論ありき。その結論を根拠づけるために論理が用ゐいられる場合には、よほど警戒が必要だ。裁判といふことの難しさもそこにある。冤罪を防ぐためには正確で公正な審理が必要だが、はじめに無罪ありきで理論武装した弁護士や、はじめに有罪ありきで証拠を探してくる検察官との言葉のやり取りを、正確で公正に判断するのは極めて困難だ。論理でカモフラージュすれば、人は平気で嘘をついてゐられるからである。

 自己欺瞞といふものには、こちらが相当に警戒してゐてもからめとられてしまふのである。

 1968年、「プラハの春」があつた。チェコスロバキアのプラハをソ連の戦車が侵攻し、人々を弾圧した。ソ連は東欧の秩序を維持し当面の安定を獲得した。しかし、その時代を生き、一部始終を見届けてゐたゴルパチョフによつて、ソ連の改革そして崩壊といふ時代を迎へたのである。つまり弾圧した側が、そのことによつて内部に内省の力を生み出し、自らを瓦解させるといふことである。そこに働いてゐた力は「論理」ではない。じつに「良心」の働きである。少々荒つぽい説明であるが、私たちが自己欺瞞や論理の脆弱性から身を遠ざけるためには、やはりこの「良心」といふ小さい力に頼るしかない。

 強いものが強いが故に内包してしまふ矛盾=自己欺瞞は、論理によつては打ち破られない。弱いものが良心によつて生き続けるか、強いものがその声を聴き続けるか、そのどちらかが歴史を作り上げてきたのである。

 しかし、それには時間がかかる。長い時間の単位で物事を見つめる必要がある。それができないから、多くの場合、弱いものが死に、強いものがより一層の悲劇を生み出し、その悲劇にまみれて自壊していくといふスタイルになりがちなのである。

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質問するといふこと―問の両義性

2016年07月08日 10時41分18秒 | 日記

 先日、芦田氏と話をしてゐるなかで、自分の著作は自分が抱いた疑問に自分が答へていくといふことで、書き上げて一番勉強になるのは自分だといふやうなことをおつしやつてゐた。

 質問することは難しい。うまく質問できれば、もう答へは自明である、といふやうなことを確か小林秀雄も講演で語つてゐた。今、ネットで調べると、正確にはかう言つてゐた(実に便利である)。

「実際、質問するというのは難しいことです。本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのですよ。(中略)僕はだんだん、自分で考えるうちに、『おそらく人間にできるのは、人生に対して、うまく質問することだけだ。答えるなんてことは、とてもできやしないのではないかな』と、そういうふうに思うようになった。」

 ところで、臨床哲学をはじめた鷲田清一氏は、「質問とは、本来分からない人が分かる人に訊くものだ。しかし、試験の問とはそれと逆の構造である。つまり分かつてゐる人が分からない人に訊くわけだ。」したがつて、知りたい、学びたいといふ思ひがないなかで、試されるといふ心理状態の中で問が発生してゐるのが、学校といふ空間といふことになる。それでは、うまく伝はることも、学びが発動することもない。そこで、鷲田氏は、「めだかの学校」のやうに「だれが先生でだれが生徒か分からない空間にすれば、大人がほんたうに伝へたいことも、子供がほんたうに訴へたいことが、行き交ふだらう」と書いてゐる(要約)。

 果たしてどうだらうか。確かに、分かる人が分からない人に問ふといふことが「試験の問」ではある。しかし、それは本来の問ふとは違つた性質を持つものであらうか。鷲田流に言へば、問は両義的な性質を持ち、分かる人が訊くことも、分からない人が訊くこともある。その双方向の問の関係が、物事の理解を深めていくとはどうして言へなかつたのだらうか。とても疑「問」である。

 学びの主体が出来上がつてゐない学校空間を、もし「めだかの学校」のやうにすれば、それはイヴァン・イリイチの「脱学校化」の主張にからめとられてしまふのではないか。まさか鷲田氏は、近代が作り出した学校といふ制度を壊していくべきだといふ急進的な思想家であるまい。学校制度はほころびが出てきてはゐるが、それを継続的にいかに改良していくかが今「問」題なのである。

 

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安田敏朗著『漢字廃止の思想史』の問題点

2016年07月06日 15時53分26秒 | 日記

 一橋大学准教授の安田敏朗氏の新著『漢字廃止の思想史』についてである。

 大部なもので549ページもある。かういふ書物が、しかも平凡社といふ大手の出版社から出るといふことが驚きである。研究費で実費は出すから、まづは出版をといふことであるのかもしれないが、出版不況といふ巷間言はれてゐることと、かういふ専門書が出るといふことがどう両立するのか、とても興味深い。もつとも、その背景を論じようといふ気までは起きませんが(いい加減なものです)。

 購入したまま私は結局読みませんでしたが、『民主と愛国』といふこれまた大部の著者小熊英二氏にしても、どういふ経緯でああいふ本が出るのか不思議でなりません。

 図書館が買ふ。学生に教科書として買はせる。一部の研究者仲間の評判が高まり、知らない大学院生たちがさうと知らずに買ふ。さういふことなのかもしれない。

 となれば、ほんたうに「読むべき本」といふのがますます分からなくなる。リテラシーを磨くことが必要になるが、読むべき本が分からないのに、本の洪水に放たれた市民にリエラシーを磨けといふのはずいぶん酷なことである。本来、その役割を出版社の編集者なり、新聞雑誌の書評家なりが担ふべきだが、先日も取り上げた山口謡司氏の『日本語を作った男』を各誌紙の書評家が絶賛するといふ体たらくは、その機能がマヒしてゐるとしか思へない。

 さて、今回の書であるが、私は未読であるし、読むこともない。ただ出版に際して新聞社が行つた安田氏へのインタビュー記事にたいする異論である。しかし、かういふ認識で書かれた近代国語史に誠実なものを期待できるはずもない。まあ、次の言葉を一読してみてください。

「漢字について、能率ばかりを強調した議論は良くない。でも、日本に住む外国人が増えることへの対応や、識字障害をはじめ『漢字弱者』への視線などの時代の要求も考える必要があります。」

 いつたい国語とは誰のための言葉なのだらうか。日本に住む人のためのものであらう。外国人が5割を超えたなら、それは仕方あるまい。今の状況で「漢字弱者」のために漢字を制限せよ、廃止せよといふことを考へるのは、過剰反応である。「時代の要求」とは、あまりに不適切である。時代に要求したり遠慮したりする意志はない。あるのは住んでゐる人の思ひとそれを作り上げた過去の人々の思ひである。閉鎖社会を造り出す必要はないが、かといつて「漢字弱者」とレッテルを張り、外国人の漢字習得を求めないのは異常である。できない人には、その対策を考へれば良いのであつて、国語の体系を壊す必要はさらさらない。

 次にはこんなことも話してゐた。

「かつての人間は文字を使わず生活し、近代化後も人々は自由に文字を使ってきた。過度に漢字と伝統を結びつけるのは違和感がある。」

 これは笑ひ話かといふほどの発言である。「かつての人間は文字を使わずに生活し」てゐたことを基準とするなら、「かつての人間は電気を使わずに生活し」、「かつての人間は自動車を使わずに生活し」、「かつての人間は本を讀まずに生活し」、「かつての日本人は外国語を使わずに生活し」てゐたことも基準になるのか。いくら「過度に漢字と伝統を結びつけるな」が主旨であるとしても、根拠となる例がひどすぎる。

 そもそも漢字廃止の思想史をさぐつて何が言ひたいのだらうか。能率優先が問題で漢字を減らして仮名だけにせよといふかつての議論も、今日外国人が国内に増えて来たので漢字を減らせといふのも思想史と言へるものなのか。思想がないから、さういふ偏見が一定の力を持つに至つたのではないか。それが証拠に、前者はワープロといふ技術が解決してしまつた。そしていづれ後者も新たな技術が解決する。つまり、それは思想の問題ではないといふことである。したがつて私の結論は、漢字廃止の思想欠如史といふことでなければ、この種の研究書を国立大学の先生が研究費で出版するといふことが問題だといふことである。

 人文社会学への軽視は、案外かういふことの連続が生み出した鬼子であると感じるのである。

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芦田宏直氏に会ふ

2016年07月05日 22時15分32秒 | 日記

 

 愛知県に引つ越してきて良かつたと思へた一日であつた。

 かねてより愛読してゐた芦田宏直氏が、私の今住んでゐる場所から車で30分ほどのところにある人間環境大学の副学長をされてゐることを最近知り、居ても立つても居られず、面会の願ひを出し、やうやく本日会ふことができた。

 最初だから顔合はせで、一時間ぐらゐと思つたが、四時間ずつと話をした。ほとんどは拝聴するといふ具合だが、哲学の個人レッスンを四時間していただいたと思ふと、まさに極楽のやうな時間であつた。話は、教育問題、学校問題、授業問題、教師問題、そしてハイデッガー論、現象学、解釈学、田中美知太郎流に言へば、「哲学談義とのその逸脱」は本当に知的刺戟に満ちてゐた。

 聞けば、10時間の講演をしたことがあると言ふ。講演者である芦田先生も観客も、食事も摂らずに10時間の講演が成立するといふ現代の奇跡を体験された人の話力は驚嘆すべきものがある。とにかく話が面白い。声も大きい。どんな質問にも当意即妙にしかもその話題からぐいと奥にまでつれていく知力は脳が喜んでゐた。かういふ時間を持てたことが本当に嬉しかつた。

差し障りのない質疑を一つ。

 問 近代哲学をやりたいといふ生徒にたいして、どこの大学を薦めますか。

 答 どこもないと思ふけれども、大学は東大に行つて、そのあと自分の好きな学者に師事したらいい。ハイデッガーなら、高千穂大学の斎藤元紀といふ気鋭の学者はいいね。阪大の高田珠樹もいいと思つたが、それ以上かもしれないとのことであつた。

 芦田氏もこれからいろいろと本を出されるらしい。考へながら書くスタイルは、量産とは相容れない。啓蒙書とは一線を画した本のスタイルを貫く芦田氏だが、できれば一年に一冊ずつは読みたいものである。

 芦田氏は、キンドルを愛好されてゐた。岩波新書もキンドルになる時代だから、キンドルは必需品。中等教育でもキンドルを買はせてリテラシーを磨かなければと言はれた。機械音痴の私には相当な負担であるが、たじろぎながら聞いた。

 「現象」とは何かといふことの応答も面白かつたが、それはまたいづれ。

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再受験生と会ふ

2016年07月03日 12時29分29秒 | 日記

 昨日は、名古屋で再受験に挑まうとしてゐる卒業生と再会。学校は、期末試験最終日で、3月まで一緒に学年団で過ごした先生方と午後から名古屋に出かけた。

 セール間際なのか、土曜日の午後の名駅はいつもこんなであるのか、びつくりするほどの人手に閉口しながら、鼻からドライアイスを吹かないでゐてくれた「ナナちゃん」(今から34年前に初めて見たときは、もつと大きいと思つたが、今はこんなものかと思ふ)の脇を通つて、第一会場の駿台予備校名古屋校に向かふ。今夏最高の気温の中、日影がありがたい。それから河合塾、そしてその他の予備校生と時間を分けて実施。

 試験の結果が出たばかりといふことで、元気な者、元気でない者もゐたが、まあいろいろある。むしろこれからの方がある。それでも忍耐して心に秘めた目標を達成してほしい(月並みですが)。

 来春の喜びを大きなものにするためには、あるいはその喜びを日に日に内からじわりと湧き出てくるやうなものにするためには、今の生活の過ごし方が肝心だ(これも月並みですが)。

 大仰で照れ臭いが幸福感の作り方は、さういふところで学んでいくものだと思ふ。

 次は、東京の会、そして関西の会と続きます。

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