言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

白石一文『草にすわる』を読む

2024年01月31日 12時33分04秒 | 評論・評伝
 
 
 今日も白石文学を楽しんでゐる。
 今作は短編集。5篇の作品が編まれてゐる。
 中では「砂の城」を推す。
「若い矢田が、世を恐れ、人を恐れ、そして自らの無知を深く恐れながら、必死で文学と格闘していった」
「彼の文学は、無神論者が血眼になって神を求めているような、いわば見苦しい徒労だね」
「要するに矢田は人間関係の距離を上手くはかることのできぬ男であり、それは彼の生まれついた一大欠落だった」
 ここに記された作家矢田泰治とは、白石一文のことなのかどうか、あるいは父親で直木賞作家の白石一郎のことなのかは分からない。そんなことはもちろんどうでも良いことだが、かういふことを書き留めることのできる白石一文の日本人評を、私は得難い観察眼として嬉しく思ふのである。言葉はそれを感じるものにしかかたちを与へてくれはしない。ある人の苦しみをかういふ言葉で捉へることのできる現代作家を私は白石一文以外に思ひ浮かべられない。
 
 さて、次は何を読まうか。
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「PERFECT DAYS 」(役所広司主演)を観る

2024年01月17日 21時22分21秒 | 映画
 今年最初の映画。
 紛れもない日本映画だけれど、やはりどこか違和感がある。主役が夜眠る夢がモノクロで、不穏な音楽にうなされてゐるやうな印象を受ける。しかし朝起きた彼は不機嫌でもなく、昨日と同じやうに朝の作業をこなして仕事に行く。渋谷辺りの公衆トイレを清掃するのが彼の仕事。寡黙に丁寧に仕事をこなす。昼休憩に寄る神社の境内ではサンドウィッチを食べる。木漏れ日を見ては笑顔になる。ピントをわざと合はせず偶然の妙に委ねてフィルムカメラでその木漏れ日を撮る。もう何年も続けてゐる。帰宅して銭湯に行き、帰りがけに一杯やつて家に帰つて本を読む。眠たくなつたらそのまま眠る。
 その1日の固定された生活から弾き飛ばされたやうな心情や考へが汚物のやうに夢に滲み出て来る。しかし夢は見れば終はる。あたかも浄化されたかのやう。だから、朝になれば笑顔が訪れる。
 寡黙な男の生活であるが、こんなにも人は夢を見るか。しかもこれだけ肉体を使ふ仕事では夢は見まい。そんなところに違和感がある。
 不穏な音楽と映像とで映画のスタティックなダイナミズムが途切れてしまつたやうに思ふ。小津安二郎の映画と比較する人もゐるやうだが、これは紛れもなく西洋人の作つた精神分析の映画に思へた。
 
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2024年の太陽の塔 高所恐怖症の鳥はゐるのか

2024年01月05日 08時48分56秒 | 日記
 冬休み最後の1日となつた。太陽の塔を見に行かうと思ひ立ち、昼食をとつた後に出かけた。歩いて行かうかと思つたが、2時間ほどの歩行に膝がどう反応するのかを考へるとやめた方が賢明だと思ひ直してモノレールで出かけた。
 公園を訪ねる人は思ひのほか少なかつた。温かい冬の一日に公園での散歩はもつてこいだが、やはり初詣が優先ではあらう。太陽の塔には神事につながるものは何もないからである。思はず拝みたくなる威風と清潔とはあるけれども、岡本太郎といふ藝術家が創り出した意匠である。
 
 しばらく眺めてゐると頭部の辺りにカラスが飛んでゐるのに気がついた。これまで何度も見てきた姿であるが、珍しい光景だつた(上の2枚目の写真のアンテナの部分にカラスが1羽止まつてゐるのがお分かりになりますか)。以前、このブログに書いたかもしれないが、太陽の塔について旧約聖書のノアの話に触れたことがあつたと思ふ。簡単に言へば、ノアの家族たちは大洪水が終はつて船から降りようとした時、窓から鳥を放つた。そして戻つて来なければ水が引いたと判断したといふ逸話である。
 1度目はカラス。2度目から4度目は鳩であつた。2羽の鳩は戻つて来たが最後の鳩は戻つて来なかつた。その連想から、私は太陽の塔とはその3羽目の鳩であり、飛び立たうとしてゐるのではなく着地した瞬間の鳩の造形に見えると解釈したのである。地上に降り立つた白鳩だ。

 そして昨日のカラス。自在に飛んでゐる姿を見て、ふと思つたのが「高所恐怖症のカラスはゐるのだらうか」といふことであつた。じつにどうでもいいことではあるが、面白く考へた。
 飛べない鳥は鳥でないとすれば、人間にとつて「飛べる」に値することとは何だらうか。そしてもしそれができないとすれば、彼は人間ではないといふことになるのか。
 人間にとつて「飛べる」とは、おそらくかういふことだらうといふことは思ひついたが、それは伏せておかうと思ふ。それを考へるといふこと自体が面白いことだからである。

 着地した3番目の鳩である太陽の塔は飛ばないことを願はれてゐる。と言ふことはもはや鳥ではない。もちろん、あれは鳥の造形ではない。平和が続く限り飛ばないことが彼の使命である。

 令和6(2024)年は、大きな地震と飛行機事故とで始まつた。時間とは人工的なものであり、1月1日の大地震には自然の意図があつた訳ではない。が、その被災地へと急がうとした海自の飛行機が事故を起こした。この不思議な連動に何かを感じるのは人間のワザである。
 ひたすらに復興と慰労との祈りを捧げるのみである。

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住吉大社に参る

2024年01月04日 10時22分58秒 | 評論・評伝
 奈良の春日大社にお参りするつもりだつたが、急遽予定を変更して住吉大社に詣でた。大阪府民でゐたころから一度も出かけたことがなかつた。場所も何となくあの辺りといふ認識しかなく、調べてみると南海本線にその名も「住吉大社」といふ駅があつた。場所は駅前。1月2日の午後。結構な人盛りであつた。
 天気は快晴。初めて参る宮の雰囲気は独特。第一、第二、第三宮は縦直列.第三宮の横に第四宮が建つてゐる。配置について住吉大社の説明によれば、「大海原をゆく船団のよう」であり、「古代の祭祀形態をよく伝える貴重な存在」とのこと。その点について全く知らない私には、さういふものかと思ふしかないが、独特さは感じた。遣隋使が派遣された地であるとの案内板を読むと、まさに「大海原をゆく」といふ表現が相応しいと感じられた。
 目の前に阪堺線の路面電車も走つてゐて、それが船のやうでもあり、似つかはしくもないやうでもあり、大阪の雑多な現在を映してゐる神社である。

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東浩紀『訂正する力』を読む

2024年01月03日 11時52分04秒 | 評論・評伝
 
 デリダの研究者だけに、本書が伝へてゐる「訂正」とは「脱構築」といふことである。この言葉、哲学の専門用語なので日常的に使はれる言葉としては「再解釈」といふのが適切であらう。しかし、「再解釈する力」では面白くないので、敢へて人人が違和感を抱きやすい「訂正」といふ言葉で気を引かせる(異化)といふ戦略なのだらう。
 東は、「修正」と「訂正」は違ふと本書のなかで何度も書いてゐるが、それは「歴史修正主義」といふ悪評高い言ひ方があつて、それへの差別化を意図したものである。歴史修正主義とは、特定の側面のみの誇張や政治的な意図を持つた歴史の書き換へのことを言ふが、例へばホロコーストの否定や矮小化である。このことの当否は、ここでは問題にしないが、読者の私としては、この言葉の選択に意味を感じない。なぜなら東が求める行為自体は「再解釈」なのであるから、それが東にとつて正しいものとなる時を「訂正」と言ひ、正しくないものとなる時に「修正」と言つてゐるにすぎず、それなら問題は「再解釈」の中身であると言へばいいのではないかと思ふからだ。
 東の「訂正」の理念を、平たく言へば「じつは……だった」といふことだと述べてゐる。この構文が訂正の理念であるとすれば、問題は「……」の中身が妥当かどうかといふことである。
 ただ急いで付け加へれば、この「じつは……だった」といふことを恐れずにし続ける力こそ、言論を育て豊かにしていくのだといふ東の主張には大きく賛同する。そして、そのことの難しさに、ある思想や組織や社会や文化が大きくなれるかしぼんでしまふかがかかつてゐるといふのもその通りであらうと思ふ。さらに、日本はさういふ考へ方を自然にやり遂げて来たのではないかとも言つてゐる。

 東が考へる今日の社会で最も重要な「訂正」すべきこととは、「平和」の理念にたいしてである。
「平和とは政治の欠如であり、その欠如にこそ価値があると訴えてみたいのです。『つぎつぎになりゆくいきほひ』(引用者註・丸山眞男の『歴史意識の「古層」』の用語で、東が日本文化の特徴を表す言葉として重視)を、主体の欠如ではなく、政治の欠如(への志向)だと捉えることで、新しい日本=平和論の可能性が拓けないでしょうか」と述べてゐる。
 こんなアクロバティックなことが果たして出来るのかどうか。一般の国民はもちろんのこと、現在の知識人たちにも可能かどうか。私には疑問である。東が取り上げる日本の思想家、伊藤仁斎・荻生徂徠・本居宣長、彼らの取り組みに匹敵するやうな思想家が果たして現在にゐるのかどうか、さういふ問ひかけが私には自然に生じてしまふ。彼らだからこそ可能であつた難問への解答を現在の国民に期待するよりは、私たちには政治が欠如してゐるではないか。主体性が欠如してゐるではないか、と一度も考へたことのない日本人であることを知つた方がよいと私は考へてゐる。現在の日本の啓蒙思想家(啓蒙ぐらゐしかできないだらう)にはそれを期待したい。
 ちなみに言へば、本書の最後の最後に東は、こんな愚痴をこぼす。
「考えるとはとてもふしぎな行為です。考えたからいいことがあるとはかぎらない。むしろ考えると動けなくなる。まえに進めなくなる。それでも考えることは大事なはずだと本書では言い続けてきましたが、正直言ってそれが本当だという確信もありません。だって、世界には、なにも考えずに大成功しているひとがいくらでもいます。そっちのほうがどう考えてもよさそうです。」
 少し意地悪く言えば、最初の「考える」と最後の「考えて」とは同じ動詞だが、意味が違つてゐる。果たして思想家東浩紀の「考える」はどちらなのだらうか。つまり、「訂正」を求める思想家なのか「大成功」を求める市井人なのか。「考へる」こと自体がふしぎな訳はない。考へるとは、良きものを巡つて選択を繰り返していくことであらう。その過程で「訂正」が必要であればすればよい。それが「良きものを巡る」行為であるからだ。そんな過程で「成功か否か」が口を突いて出てきてしまふといふのが、私には「ふしぎ」である。
 訂正の力が大事、と言ひ切れないところに、思想家東浩紀の課題があるやうに感じられる。訂正の力を発揮してほしい。

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