デリダの研究者だけに、本書が伝へてゐる「訂正」とは「脱構築」といふことである。この言葉、哲学の専門用語なので日常的に使はれる言葉としては「再解釈」といふのが適切であらう。しかし、「再解釈する力」では面白くないので、敢へて人人が違和感を抱きやすい「訂正」といふ言葉で気を引かせる(異化)といふ戦略なのだらう。
東は、「修正」と「訂正」は違ふと本書のなかで何度も書いてゐるが、それは「歴史修正主義」といふ悪評高い言ひ方があつて、それへの差別化を意図したものである。歴史修正主義とは、特定の側面のみの誇張や政治的な意図を持つた歴史の書き換へのことを言ふが、例へばホロコーストの否定や矮小化である。このことの当否は、ここでは問題にしないが、読者の私としては、この言葉の選択に意味を感じない。なぜなら東が求める行為自体は「再解釈」なのであるから、それが東にとつて正しいものとなる時を「訂正」と言ひ、正しくないものとなる時に「修正」と言つてゐるにすぎず、それなら問題は「再解釈」の中身であると言へばいいのではないかと思ふからだ。
東の「訂正」の理念を、平たく言へば「じつは……だった」といふことだと述べてゐる。この構文が訂正の理念であるとすれば、問題は「……」の中身が妥当かどうかといふことである。
ただ急いで付け加へれば、この「じつは……だった」といふことを恐れずにし続ける力こそ、言論を育て豊かにしていくのだといふ東の主張には大きく賛同する。そして、そのことの難しさに、ある思想や組織や社会や文化が大きくなれるかしぼんでしまふかがかかつてゐるといふのもその通りであらうと思ふ。さらに、日本はさういふ考へ方を自然にやり遂げて来たのではないかとも言つてゐる。
東が考へる今日の社会で最も重要な「訂正」すべきこととは、「平和」の理念にたいしてである。
「平和とは政治の欠如であり、その欠如にこそ価値があると訴えてみたいのです。『つぎつぎになりゆくいきほひ』(引用者註・丸山眞男の『歴史意識の「古層」』の用語で、東が日本文化の特徴を表す言葉として重視)を、主体の欠如ではなく、政治の欠如(への志向)だと捉えることで、新しい日本=平和論の可能性が拓けないでしょうか」と述べてゐる。
こんなアクロバティックなことが果たして出来るのかどうか。一般の国民はもちろんのこと、現在の知識人たちにも可能かどうか。私には疑問である。東が取り上げる日本の思想家、伊藤仁斎・荻生徂徠・本居宣長、彼らの取り組みに匹敵するやうな思想家が果たして現在にゐるのかどうか、さういふ問ひかけが私には自然に生じてしまふ。彼らだからこそ可能であつた難問への解答を現在の国民に期待するよりは、私たちには政治が欠如してゐるではないか。主体性が欠如してゐるではないか、と一度も考へたことのない日本人であることを知つた方がよいと私は考へてゐる。現在の日本の啓蒙思想家(啓蒙ぐらゐしかできないだらう)にはそれを期待したい。
ちなみに言へば、本書の最後の最後に東は、こんな愚痴をこぼす。
「考えるとはとてもふしぎな行為です。考えたからいいことがあるとはかぎらない。むしろ考えると動けなくなる。まえに進めなくなる。それでも考えることは大事なはずだと本書では言い続けてきましたが、正直言ってそれが本当だという確信もありません。だって、世界には、なにも考えずに大成功しているひとがいくらでもいます。そっちのほうがどう考えてもよさそうです。」
少し意地悪く言えば、最初の「考える」と最後の「考えて」とは同じ動詞だが、意味が違つてゐる。果たして思想家東浩紀の「考える」はどちらなのだらうか。つまり、「訂正」を求める思想家なのか「大成功」を求める市井人なのか。「考へる」こと自体がふしぎな訳はない。考へるとは、良きものを巡つて選択を繰り返していくことであらう。その過程で「訂正」が必要であればすればよい。それが「良きものを巡る」行為であるからだ。そんな過程で「成功か否か」が口を突いて出てきてしまふといふのが、私には「ふしぎ」である。
訂正の力が大事、と言ひ切れないところに、思想家東浩紀の課題があるやうに感じられる。訂正の力を発揮してほしい。